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摂津の風土記

Vol.9

【第二シリーズ】摂津の古社寺
住吉大社

 摂津国の一宮、すなわち、摂津で最も社格の高い神社として知られるのが、大阪市の南部に所在する住吉大社で、大阪の人々から「すみよっさん」と呼び親しまれている。奈良時代には「すみ(の)え」と呼ばれ、住江・墨江・須美之江などと記されたが、その音により住吉とも表記されたことから、平安時代以後「すみよし」という呼称が一般化したと考えられる。

 その社殿は、東から西に向かって、第一から第三の三つの本殿が一列に並び、最西、つまり先頭に位置する第三殿の南に、やはり西向きの第四殿が並列するという配置で、あたかも海に浮かぶ船団のような形態と言われている。四つの本殿の建築様式も、住吉造という独特のもので、天皇の即位に際して挙行される大嘗祭の大嘗宮に類似した構造をとる。現社殿は文化7年(1810)の造営にかかり、国宝に指定されている。

 第一殿から第三殿の祭神は、底筒男(そこつつのお)命・中筒男命・表筒男(うわつつのお)命の住吉三神で、第四殿には神功皇后が祀られる。この神社の由来について、『日本書紀』は次のように伝えている。

 仲哀天皇崩御ののち、朝鮮半島への遠征を終えた神功皇后は、誉田別尊(ほんだわけのみこと、のちの応神天皇)を筑紫で出産する。畿内にとどまっていた仲哀天皇の皇子である麛坂(かごさか)王と忍熊(おしくま)王の兄弟が、神功皇后とその皇子を亡きものにせんと謀り、待ち伏せを試みる。それを知った皇后は、軍を率いて瀬戸内海から難波へと向かった。務古水門(むこのすいもん)、すなわち武庫川の河口あたりで占いを行ったところ、住吉三神が「大津の渟中倉の長峡(おおつのぬなくらのながお)」の地に祀るように告げたため、神功皇后は三神をこの地に鎮座せしめ、無事に難波に辿り着いたという。

 この住吉三神について、記紀神話では以下のように語られる。国生みで知られる伊弉諾(いざなぎ)尊が、亡き妻・伊弉冉(いざなみ)尊に逢うために禁を犯して黄泉(よみ)国に赴く。その変わり果てた姿を目の当たりにし、慌てて戻ろうとした伊弉諾尊は、怒り狂う伊弉冉尊の追っ手に迫られながら、這々(ほうほう)の体で逃げ帰り、海に入って禊(みそ)ぎを行った。この時生まれた六神のうち、海底で生まれた底筒男、海中の中筒男、海上の表筒男の三神が、住吉大神と総称された。

 住吉三神に加えて、お告げを受けた神功皇后自身も、第四の祭神としてこの神社に祀られるようになるが、このように海と縁の深い住吉大神を祀る住吉大社は、朝廷から厚く崇敬され、祈年祭や新嘗祭といった国家祭祀の対象となるとともに、平安時代より天皇の即位に際して難波で行われた八十島祭にも与った。しかし、役割として特に重視されたのが「航海守護」で、遣唐使の発遣にあたって、勅使が派遣されて奉幣がなされ、また、この神社の神職を務めた津守氏から、多くの遣唐使が任命された。『万葉集』には、天平5年(733)の入唐使に贈る歌が残されている。

そらみつ  大和の国  あをによし  奈良の都ゆ  おし照る  難波に下り  住吉の  三津に船乗り  ただ渡り  日の入る国に  遣はさる  我が背の君を  かけまくの  ゆゆし恐(かしこ)き  住吉の  我が大御神  船の舳(へ)に  領(うしは)きいまし  船艪(ふなども)に  み立たしまして  さし寄らむ  磯の崎々  漕ぎ泊(は)てむ  泊まり泊まりに  荒き風  波にあはせず  平らけく  率(い)て帰りませ  もとの朝廷(みかど)に

(巻19ー4245)

文学部

本郷 真紹教授

専門分野:日本古代史