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摂津の風土記

Vol.10

会報2020年 冬号掲載
【第三シリーズ】茨木周辺の古社寺とゆかりの人びと
総持寺と藤原山陰

 OICのある茨木市内に、総持寺という平安前期の9世紀に創建された真言宗の古刹が所在する。この寺院の創建について、『今昔物語集』に次のような話が見える。

 藤原山陰(やまかげ)(蔭)という貴族が住吉大社に参詣した際、鵜飼の船に乗せられた亀を買い取り、海に放してやった。その後年月を経て、この山陰の妻が海に投げ込んだ先妻の子の若君を、亀が甲羅の上に載せて運んできた。亀は一旦海に戻ったが、山陰の夢の中に現れ、かつて助けられた恩返しに、若君を救い届けたことを告げた。

 山陰はこの若君を法師にし、一度亡くなった児であることから、如無(にょむ)と名付けた。如無法師は興福寺の僧となり、宇多上皇に仕えて僧都の地位にまで昇った。恩返しとはいえ、人の命を救い、夢でその経緯を告げるなどというのは、その亀が仏・菩薩の化身であったからに違いない。この藤原山陰は、摂津国に総持寺という寺院を創建した人物として、語り伝えられている。

 一方、総持寺に伝来する近世初期の『総持寺縁起絵巻』によると、類似した経緯ではあるが、継母により川に投げ入れられたのは藤原山陰自身であり、かつて漁師たちから大亀を買い上げて逃がした父・高房が観音に祈願したことで、山陰が助けられたとされる。

 高房は観音の恩に報いるため造像を発願し、材料の香木を唐で求めようと遣唐使に依頼したが、持ち出しが禁じられ、遣唐使はその香木に銘を記して海に流す。高房の死後、山陰が日本に流れ着いたこの香木を手に入れ、長谷寺に参詣して仏師の童子に観音像の製作を依頼する。実は、この童子は長谷寺の観音の化身で、作り上げた観音像を祀って総持寺が建立された。

 ここにはまさに、観音の霊験譚と、放生(ほうじょう)された動物の報恩譚を合わせて見て取ることができる。放生は仏教で重視された行為で、平安初期の説話集『日本霊異記』にも類話が見られるが、ただ、『今昔物語集』のように、その動物自体を仏・菩薩の化身と受け止めた例は稀であり、興味深い。

 この説話に登場する藤原高房・山陰・如無の三代は、実在した藤原北家の人物である。高房は越前等の国司を歴任し、良吏として知られた。その二男・山陰は、元慶3年(879)参議の任にあって、摂津国の班田を検校する役割を担うが、総持寺もこの年に創建されたと伝える。その三男の如無は出家して法相宗の僧となり、宇多上皇に近侍して大僧都の地位につく。すなわち、上記の説話はいずれも、この三代の事績を踏まえて著されたことがわかる。

 中納言にまで昇った山陰の死後、総持寺はその子供たちにより伽藍が整備され、寛平2年(890)に落慶したと言われる。12世紀に三好為康が編纂した『朝野群載』に、総持寺の鍾銘とその製作にまつわる話が見えるが、そこには、高房の意志を受け継いだ山陰が、摂津国島下郡に総持寺を創建し、唐より得た白檀の香木で造った千手観音像を安置し、その二男の藤原公利が延喜7年(907)に鐘を鋳造したと伝えている。

 現在総持寺は、西国三十三所・第二十二番札所の観音霊場として、多くの参詣者で賑わっている。

文学部

本郷 真紹教授

専門分野:日本古代史