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摂津の風土記

Vol.11

【第三シリーズ】茨木周辺の古社寺とゆかりの人びと
北摂の山林寺院と開成皇子

 茨木市域の中央部、東隣の高槻市との境の近くに、神峯山(かぶさん)大門寺という真言宗御室派の古刹が所在する。紅葉の名所として知られる山間の寺院であるが、本尊の秘仏如意輪観音坐像や四天王立像は平安後期の作で重要文化財に指定されており、古い歴史を裏付けている。

 この寺院を開いたとされるのが、光仁天皇の皇子と伝える開成(かいじょう)である。寺の伝承等によれば、神亀元年(724)に生まれたこの皇子は、天平神護元年(765)に平城京を離れ、摂津北部の山地で善仲・善算という兄弟の僧と出会った。この二僧は神亀4年よりこの地に草庵を営んで修行していたが、開成は彼らを師として出家受戒し、大般若経六百巻を写し終え、宝亀6年(775)この地に弥勒寺という寺院を創建した。同10年には妙観という比丘がこの地を訪れ、十一面千手観音を刻み本尊とした。平安時代になって、清和天皇の病気平癒を祈願した関係で勝王寺という寺号を賜り、王の字を尾に改めて勝尾寺としたという。

 勝尾寺は茨木市西隣の箕面市にある寺院で、高野山真言宗に属し、西国三十三所・第二十三番札所として知られる。元慶3年(879)出家した清和上皇が巡拝した名刹の中に「摂津国勝尾山」という名が見え、この寺院は仏道修行の聖地として多くの参詣者を集めた。その北西、標高540メートルの最勝ヶ峰に、天応元年(781)に卒去したとされる開成皇子の墓がある。元亨4年(1324)5月18日の銘を有する石造五輪塔が建てられ、「光仁天皇皇子」の墓として宮内庁の管理下に置かれている。

 茨木市の大門寺は、この勝尾寺の東方、直線距離にして約6キロ半の地点に位置する。開成が宝亀2年にこの地で多聞天の化身と出会って草堂を建て、のちに空海も滞在したという伝承をもつ。平安時代には多くの堂舎を備えて隆盛したが、中世に天災や兵火を被って衰微し、江戸初期に再興された。

 大門寺の東方の高槻市にも、開成の開創と伝える寺院が複数存在する。高槻市霊仙寺町にある高野山真言宗の霊山寺(りょうぜんじ)は、不動明王のお告げにより開成が宝亀9年に創建したといい、さらにその東方、浦堂本町の安岡寺は、同6年に開成が霊験により自ら観音像を刻んで安置したという。この安岡寺を南山とし、中央の根本山神峯山寺、北山の本山寺と合わせて北摂三山寺と称している。

 北摂三山寺はいずれも天台宗の寺院で、神峯山寺は安岡寺北方の山間部、原という地に所在し、文武元年(697)に役小角が霊感によりこの地を訪れ創建したと伝える。この時現れた金比羅童子が四体の毘沙門天像を造り、うち三体は他の地に飛び去り、残りの一体を本尊として祀った。のち、宝亀5年に開成が父帝の命を受けて中興したという。修験の霊場という性格から多くの修行者を集め、また毘沙門天に対する信仰は、皇族・貴族のみならず、武士や商人に至るまで、時代を通じて多くの参詣者を得た。境内には、光仁天皇の分骨塔という石造十三重塔や、開成の埋髪塔という石造五重塔が立っている。

 北山本山寺は、神峯山寺の更に北方に位置し、神峯山寺の奥の院とも言われるが、やはり役小角が道場として開創し、宝亀年間に開成が堂宇を建立したという。本尊は神峯山寺から飛来したとされる毘沙門天像で、重要文化財の指定を受けている。また境内には、開成の一石一字経塔が所在する。

 開発により宅地の近隣となっているものあるが、北摂の山間部に位置するこれらの寺院が、いずれも修行場としての性格を有し、また開成皇子の創建や中興として皇室ゆかりの寺院とされるのは、興味深い事実と思われる。摂津という名称の通り、ともすれば海や港湾との関係が強く意識されがちな地域の、一つの異なった様相が見て取られよう。

文学部

本郷 真紹教授

専門分野:日本古代史