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摂津の風土記

Vol.12

【第三シリーズ】茨木周辺の古社寺とゆかりの人びと
茨木市の古社とゆかりの人びと

 OICのある茨木市中心部の元町に、茨木神社という、市の名を冠した神社が所在する。もとは現社殿北東の宮元町辺りにあり、中世にこの地に遷ったというが、この神社の伝によれば、平安時代の初期、桓武天皇の命を受けて東北に遠征し、蝦夷と呼ばれた人びとを制圧したことで有名な征夷大将軍・坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)が、大同2年(807)この地に荊切(いばらきり)の里を設けた際に、天石門別(あめのいわとわけ)神社を置いたという。茨木という地名の由来は複数見えるが、田村麻呂の設けた荊切の里に由来するというのもその一つに挙げられる。

 蝦夷征討事業が一段落した延暦23年(804)、平安京にあって造西寺長官を兼務していた坂上田村麻呂は、桓武天皇の和泉・紀伊行幸に先立って、摂津と和泉の行宮(あんぐう)の地を定める使者として派遣され、同年10月の行幸に随従した。この時、島上郡三島を本拠とする三島真人名継なる人物が、行宮に勤仕したとして位を進められていることから、島上郡或いは島下郡の辺りにも行宮が設けられた可能性があり、田村麻呂との縁がこの機に結ばれたことも考えられる。

 現在の茨木神社は、素戔鳴尊(すさのおのみこと)を本殿の祭神としているが、戦国時代にこの地域を制圧した織田信長が、牛頭天王(ごずてんのう)すなわち素戔嗚尊を祭神とする神社を破却の対象から外したことから、宮を護るために牛頭天王社と称し、後に素戔嗚尊を祀って本殿としたという。その本殿の北側に、奥宮として、元宮・天石門別神社が所在する。10世紀前半に成立した『延喜式』の神名帳にその名が載せられた式内社であることから、この神社が平安前期に存在していたことは疑いない。

 祭神である天石門別神は、天孫瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)が降臨する際に、天照大神により思兼(おぼしかね)神、手力男(たぢからお)神とともに副えられたとする神で、その名に窺われるように、門を守護する御門神とされている。因みに、中臣氏の祖神として知られる天児屋命(あめのこやねのみこと)は、天石門別神の娘である己等乃麻知媛命(ことのまちひめのみこと)が生んだ子という伝承が存在する。

 ところで、茨木市とその周辺に相当する島下郡では、摂津国の中で住吉郡につぐ多さの13社に総計17座の神が祀られ、そのうち10社9座の論社(式内社に相当する可能性を有する現存の神社)が、茨木市域に所在している。最も社格が高かったと目されるのが、新屋坐天照御魂(にいやにますあまてるみたま)神社で、特に朝廷より重視された名神3神を祀る大社とされている。主要な国家祭祀である月次祭(つきなみのまつり、6月と12月)や新嘗祭(にいなめのまつり、11月)に与り、3神のうち天照御魂神だけは、新嘗祭に先立って畿内の主な神を対象に行われた相嘗祭(あいなめのまつり、11月)に於いても、その対象とされた。

 OICの北北西約4km強の茨木市西福井にある新屋坐天照御魂神社(新屋神社)が、その論社となっており、『古事記』や『日本書紀』に瓊瓊杵尊の兄ともされる天照国照彦天火明大神(あまてるくにてるひこあめのほあかりのおおかみ)を祭神とする。社殿の奥には、この神が降臨したという日降ヶ丘(ひふりがおか)があり、石碑がたっている。社伝では、神功皇后が三韓に遠征する際にここの川原で禊を行って戦勝を祈願し、凱旋ののち、この神の荒魂(あらたま)と幸魂(さきたま)を、西の川上の宿久荘(しゅくのしょう)と東の川下の西河原に祀ったという。神社の近隣に所在する古墳は、在地の豪族である新屋連氏との関係が想定され、この神社も同氏により奉祭されたと考えられる。

 このほか、茨木市安威に所在する式内社の阿為(あい)神社は中臣藍連、同じく同市太田の太田神社は中臣太田連というように、中臣氏の支族との関係が窺われる神社が島下郡に多く見受けられる。天石門別神が中臣氏の祖神・天児屋命の祖父神とされ、また「摂津の風土記vol.3中臣(藤原)鎌足」で触れたように、鎌足の三島の別業や彼の墓の可能性がある阿武山古墳が存在することから、茨木市周辺の地域が中臣氏とゆかりの深い地域であったことが窺い知られよう。

文学部

本郷 真紹教授

専門分野:日本古代史