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三都近隣諸国の風土記

 
Vol.1

会報2021年 春号掲載
【新シリーズ】新章
丹波

※父母教育後援会会報誌「父母教育後援会だより2021年度春号」P25において、タイトルが「丹後」となっておりましたが、正しくは「丹波」です。ここに訂正し、お詫びいたします。

 現在の京都府は、古代の山背(城)・丹波・丹後の三国の地に該当する。このうち、長岡京・平安京の置かれた山背に接するのが丹波で、現京都府亀岡市の地点に国府が置かれた。平安京が四神相応の地、すなわち風水の理に適った地とされた理由が、京都市北部の船岡山(北方・玄武)、東部を流れる鴨川(東方・青竜)、かつて南部に所在した巨椋(おぐら)池(南方・朱雀)と並び、西に延びる山陰道(西方・白虎)が所在したためとされる。もっともこれは後世の解釈で、794年の平安遷都の時点では、京都盆地の西部に聳える山々(西山)が白虎に相当すると見なされた。そうであったとしても、西方に隣接する地が丹波ということになる。

 律令制以前の段階から、丹波地域はヤマト朝廷と密接な関係をもち、在地の豪族が国造(くにのみやつこ)に任じられ、6世紀前半の安閑朝には蘇斯岐(そしき)の屯倉(みやけ)(一説にはのちの丹後に所在)という朝廷の直轄地が設けられた。山陰地域と畿内を結ぶ山陰道の、畿内からの出口に当たる要衝の地にあたり、ヤマト朝廷にとっては、重視すべき地域であった。一方、山陰地域から遷ってきた人々もこの地に居を構え、その文化の影響も受けていた。のちに丹波国一宮として崇められる出雲大神宮(現亀岡市千歳町)は、出雲由来の大国主命と三穂津姫命を祭神とし、出雲大社より勧請されたという伝えもある。

 大国主命といえば、須佐之男(すさのお)命の子孫とされ、少彦名(すくなひこな)命とともに葦原中国(あしはらのなかつくに)を築いたが、高天原の天照大神からの要請で国を譲ったという国譲り神話で知られる。三穂津姫命は『日本書紀』に引用された一書に登場する女神で、高皇産霊(たかみむすび)尊の娘で大国主命に嫁いだという。この夫婦神を主祭神とすることから、出雲大神宮は縁結びの神社として崇敬されている。

 三大随筆の一つとして有名な吉田兼好の『徒然草』(第236段)にも、出雲大神宮が登場する。ここに参詣した聖海(しようかい)上人なる僧が、殿舎の前の唐獅子と狛犬が背中合わせに置かれているのを見て感動し、「不思議な立ち様だ、何か深い由縁があるのでは」と思い神主に尋ねたところ、神主は「近所の子供の悪戯には困ったものだ」と両像の向きを直したので、折角の感動も消え失せたという落ちになっている。

 出雲八幡宮と同じく丹波国桑田郡に位置する篠村八幡宮(現亀岡市篠町)は、室町幕府を開いた足利尊氏が元亨三年(1333)鎌倉幕府に反旗を翻して挙兵した地として知られ、尊氏が納めた願文が神社に遺されている。このあと尊氏は京に攻め上って幕府の拠点であった六波羅探題を攻め落とすが、二世紀半のちの天正10年(1582)には、いみじくも同じ桑田郡の亀山城を出立した明智光秀の軍勢が、京に上って本能寺の変を引き起こすことになる。一説には、光秀が近臣を集めて軍議を開き、謀反の意向を告げたのも、篠村八幡宮であったとされている。

 歴史を大きく変えることとなった足利尊氏と明智光秀の挙兵が、ともに丹波国で生じ、平安京に攻め上るという同じ経緯を辿るのも、丹波国が都にとってどのような意味を持ったかを物語っているように受け取られよう。

 ちなみに、立命館大学をはじめ学園の創設者である中川小十郎も、同じく丹波国桑田郡(現亀岡市馬路町)の出身であった。

文学部

本郷 真紹教授

専門分野:日本古代史