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三都近隣諸国の風土記

Vol.2

丹後

 大江山 いく野の道の 遠ければ まだふみも見ず 天橋立

 百人一首のこの和歌は、11世紀の天才歌人・小式部内侍(こしきぶのないし)の作にかかる。小式部内侍は有名な和泉式部の娘で、若い頃から優れた歌を詠んだが、母が代作しているのではと疑われる。歌合わせの場で、丹後にいる母に送った使者は帰ってきたのか、つまり和泉式部の代作は届いたのかと藤原定頼にからかわれて即座に詠んだのがこの歌で、あまりの見事さに定頼は尻尾を巻いて退散したという。

 情熱の歌人として知られる和泉式部は、その名の由来となる和泉の国守であった橘道貞との間に小式部内侍をもうけ、のちに藤原道長の四天王の一人・藤原保昌と再婚する。この歌合わせが開かれた当時、和泉式部は国守となった保昌とともに丹後にいたが、丹後国の国府は同国与謝郡の、天橋立の近隣に所在していた。

 日本三景の一つ天橋立は、丹後半島の東の付け根に位置する南北約3.6キロの砂洲で、伊弉諾命が天に通うために作った梯子が倒れてできたと『丹後国風土記』は伝える。西側の内海は阿蘇海と称され、この内海沿いの一角に国府が置かれた。もとは丹波国の一部であったが、平城遷都後の和銅6年(713)に5郡を分立して丹後国とした。

 天橋立北方の古社・籠(この)神社は丹後国一宮で、祭神である籠神は、平安時代に神階を贈られるなど朝廷の崇敬を受けた。現在は伊勢神宮と同じく天照大神や豊受(とようけ)大神などを祭神とするが、かつて籠神は豊受大神で、伊勢の外宮に祀られる以前の元宮とされた。当社に伝わる海部(あまべ)氏系図は、神社を掌る海部氏の歴代の人名が記された貴重な竪系図で、平安前期の書写と見られ国宝に指定されている。

 『丹後国風土記』には、ほかに天女の羽衣伝説と浦島子の伝説が見えている。

 丹波郡比治山の真奈井で水浴をしていた天女の衣が老夫婦に隠され、飛んで帰ることができなくなった。天女はやむなく老夫婦の娘となり、十余年が経過する。彼女の醸す酒が多くの財をもたらし、富んだ老夫婦は天女を家から追い出すに至る。悲嘆にくれた天女は竹野郡の奈具の村に留まることとなるが、京丹後市弥栄町の奈具神社の祭神・豊宇賀能売命(とようかのめのみこと)がこの天女であるという。

 一方、与謝郡の日置里にある筒川村の浦島子が、捉えた五色の亀が変じた女娘に誘われ、海中に赴く。里心ついた浦島子が玉匣(たまくしげ)を授けられて三百余年後の筒川村に戻り、女娘との約束を忘れてこの玉匣を開くと、若き容姿はたちまち失われた。この浦島子を祀ったとされるのが伊根町の宇良神社(浦島神社)で、御神宝として浦島明神縁起絵巻や乙姫のものという刺繍小袖(いずれも重要文化財)、二合の玉匣等を伝えている。

 天女の羽衣や浦島子の物語は、大陸の伝統的な思想に基づくものと考えられ、日本海を渡ってこの地に渡来した人々のもたらした文化が想定されよう。

文学部

本郷 真紹教授

専門分野:日本古代史