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三都近隣諸国の風土記

Vol.3

播磨

 播磨国に該当する兵庫県の本州南西部には、聖徳太子ゆかりの遺跡が多く存在する。もっとも象徴的な例は、その名を地名とする揖保郡太子町で、この地に法隆寺の所領である鵤庄(いかるがのしょう)があった。天平19年(747)に進上された『法隆寺資財帳』には、推古6年(598)に聖徳太子が法華経・勝鬘経を講説した際の布施として法隆寺に施入された、播磨国揖保郡の219町余の水田が見えている。この鵤庄は、戦国時代まで法隆寺領として存続した。

 太子町には、法隆寺領の鵤庄に関係したと思われる牓示石が残っている。言い伝えでは、この地にやって来た聖徳太子に広山の神が土地の譲渡を渋り、交渉の結果、太子が檀特山から投げた石が落ちた土地を貰い受けることになったという。このことから、牓示石は俗に投げ石と呼ばれ、また小石を指ではじいたという話からはじき石ともいわれている。鵤庄の境界を示す指標とされるが、庄の中心部に位置する石もあり、その用途が定かでない部分が存在する。

 太子町鵤の集落の中心に位置する斑鳩寺は、聖徳太子ゆかりの古刹として知られる。上述の『法隆寺資財帳』と異なり、『日本書紀』では、推古14年に播磨国の水田百町が聖徳太子に施され、「斑鳩寺」に納められたとされる。この「斑鳩寺」は大和・法隆寺のことを指すと受け取られ、同寺に嘉暦4年(1329)の「鵤庄絵図」(重要文化財)が伝わるが、播磨の斑鳩寺も水田施入の際に建立されたという。おそらくは鵤庄の現地管理施設としての性格を有したのであろう。

 太子町・斑鳩寺の境内には、戦国期に建てられた三重塔(重要文化財)をはじめ、講堂や聖徳殿、鐘楼等の堂塔があり、聖徳殿に安置された植髪の聖徳太子十六歳の像は、皇族の寄進を受け衣替えが行われる。鎌倉期の聖徳太子勝鬘経講讃図や木造日光月光菩薩立像をはじめ、多くの貴重な重要文化財を伝えている。

 播磨国南東部に位置する加古郡にも、聖徳太子ゆかりの鶴林寺が所在する。敏達13年(584)に蘇我馬子が修行者を探し求め、播磨国に居た還俗僧・恵便を見出し、彼を師として三人の尼を出家させた。寺伝では、崇峻2年(589)この恵便のために太子が秦河勝(はだのかわかつ)に命じて建立させた四天王寺聖霊院がその前身という。国宝の指定を受けた室町期の本堂(折衷様建築)、平安期の太子堂(法華堂)のほか、多数の建築や彫刻、書籍等の重要文化財を伝え、まさに文化財の宝庫というべき古刹である。

 聖徳太子の側近として有名な秦河勝は、推古11年(603)に太子から仏像を授けられ、京都太秦・広隆寺の前身とされる蜂岡寺を建立したと伝わる。この河勝を祭神・大避(おおさけ)大神として祀る神社が赤穂市の大避神社で、皇極3年(644)に坂越(さこし、しゃくし)浦に到来した河勝がこの地で死去したとされ、大避神社正面の海上に浮かぶ生島には、河勝の墓という古墳が所在し、毎年10月に、神社とこの生島を結んで櫂伝馬船・神輿船など多くの和船が繰り出す、壮大な坂越の船祭りが行われる。

 のちに秦河勝は猿楽の祖として崇められ、室町期の観阿弥・世阿弥や金春禅竹は河勝の子孫と称した。世阿弥の著した『風姿花伝(花伝書)』には、次のような河勝にまつわる伝承が見えている。

 欽明天皇の時代に、大和・大神(おおみわ)神社の鳥居の杉のあたりで、洪水で流れ着いた壺の中からみどり子が見つかり、そのみどり子が天皇の夢に現れて、秦の始皇帝の生まれ変わりであると告げた。
 成長したこのみどり子が秦河勝で、聖徳太子は河勝に命じて六十六番のものまね(遊宴、六十六番猿楽)を内裏で行わせ、「神楽」という語の「神」の字の「礻」(しめすへん)を除いて、「申楽(さるがく)」と名付けた。
 この芸を子孫に伝えた河勝は、摂津の難波の浦よりうつぼ舟(丸木舟)に乗り、風に任せて播磨の坂越の浦に着いた。河勝は神となり、大荒大明神と名付けられた。

文学部

本郷 真紹教授

専門分野:日本古代史