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三都近隣諸国の風土記

Vol.4

越前

 嶺北とよばれる福井県の木ノ芽峠以北の地域に該当する越前は、古くから大和の朝廷と密接な関係を有した。その象徴的な事例が、摂津の風土記・第2話で取り上げた継体天皇の即位である。越前より畿内に入ったこの天皇の子孫が代々皇位を継ぐことになるが、その背景を考えれば、6世紀初頭の段階で、越前には大和の朝廷に匹敵する勢力をもつ王権が存在したと推察される。

 律令制下に於いて、越前は隣国の近江と並び、国のランクとして最上位の大国に位置づけられた。それだけ多くの人が住まいし、また生産力も高いことを意味するが、可耕地の面積や水利等の自然条件に恵まれただけでなく、農耕技術や鉄製農具といった生産手段の水準の高さが影響していた。このような特色は、越前の地理的条件から導かれたと言うことができる。

 越前は、日本海を隔てて朝鮮半島に面した位置にあり、海流や偏西風の影響で、半島からの渡航者が多く行き着く地域であった。越前の南端、地理的には嶺南に位置することになるが、越前国一宮・気比神宮の所在に窺われるように、敦賀は最も重要な機能をもつ越前の港として栄えた。気比神宮の祭神である気比大神は、筍飯(けい)大神あるいは御食津(みけつ)大神と称され、御食国として衣食住、とりわけ海産物を掌り、この地に集積された食材が、近江・山背を経て大和の朝廷へ届けられた。

 敦賀という名称の由来として注目されるのが、崇神天皇の時代に半島より渡来したという都怒我阿羅斯等(つぬがあらしと)の伝承である。角をもつ都怒我阿羅斯等は、長門から出雲を経て越前の筍飯浦に至り、垂仁天皇の時代に帰国したという。その間、気比神宮の祭祀とこの地域の行政に携わったという伝えもあり、現在気比神宮の境内に鎮座する延喜式内社・角鹿神社は、この都怒我阿羅斯等を祭神とし、かつてその政所があった場所と言われる。

 大陸や朝鮮半島の影響は、当地の宗教文化にも現れた。8世紀の半ばに成立した藤原武智麻呂の伝記によれば、霊亀元年(715)武智麻呂の夢に気比神が現れ、自分のために寺を造立するように訴え、武智麻呂は神宮寺を建立したという。奈良時代以後神仏の習合が進展するが、これは最も早い段階の事例と受け止められる。この気比神宮だけでなく、越前国二宮である剱(つるぎ)神社(現越前町)にも剱御子寺という神宮寺が存在したことが、神護景雲四年(770)の銘を有する国宝の梵鐘から知られる。

 神の坐す山に仏教の修行者が立ち入り、霊験を得るという山岳信仰は、神仏習合の具体的な軌跡を示すものであるが、文献史上その最古の例というべき白山信仰も、越前を舞台に展開した。麻生津(現福井市)出身の泰澄という僧が、越知山(おちさん)での修行ののち、夢告を得て白山に入山し、白山神の本地である十一面観音を感得する。やがてこの白山は、信仰の対象であると共に修行場として発展することになった。

 白山に入山する禅定道は、越前・加賀・美濃の三方から開かれ、馬場とよばれるその登拝口に寺院が置かれた。越前の馬場として知られる白山中宮平泉寺(現勝山市)は、中世には天台宗の拠点として栄えたが、戦国期に一向一揆の襲撃で焼失した。近年の発掘調査により六千坊と称された僧坊の実態が明らかになっている。

 既に奈良時代の段階で、神仏習合の痕跡が色濃く窺われることは、やはり越前の地理的条件によるもので、在地の伝統文化と外来の文化が融合して独自の文化が醸成されたと受け止めねばならない。やがて中央でも同様の文化的融合を導くこととなり、全国的に神仏習合が進展する。その意味で越前は、疑いなく先駆的役割を果たした文化的先進地域であった。

文学部

本郷 真紹教授

専門分野:日本古代史