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三都近隣諸国の風土記

Vol.5

若狭

 養老年中(717~23)、若狭では疫病が頻発し、多くの死者が出た。干ばつが起こり、稲は実らなかった。この頃、和赤麻呂(やまとのあかまろ)なる人物が仏道に帰依し、深山で修行を積んでいたが、そこに若狭比古大神が人の姿で現れ、赤麻呂に告げた。

 「この地は私のすみかである。私は神の身を受け、苦悩がはなはだ深い。仏法に帰依して神の道を免れようと思うが、この願いが果たされないので、災害を引き起こしている。そこでおまえに、私のために修行して貰いたい。」

 赤麻呂はすぐに道場を建立し、仏像を造って、神願寺(じんがんじ)と名づけ、大神のために修行した。その後、毎年稲の実りは豊かになり、夭死する人はいなくなったという。

 天長6年(829)に若狭比古神社の神主となった和宅継(やかつぐ)が、曾祖父・赤麻呂に関する古い記録を見て語った内容とされるが、この神社は、遠敷郡(おにゅうぐん、現小浜市)に鎮座する若狭彦神社および若狭姫神社の総称で、縁起では、若狭比古神は霊亀元年(715)、姫神は養老5年(721)に唐人のような身形で白馬に乗って現れたという。神の求めにより神宮寺を建立するという件には、前回紹介した敦賀・気比神宮の神宮寺と共通する経緯が見て取られよう。

 現在も、若狭姫神社から若狭彦神社を経て南方に向かった所に、かつて神願寺と呼ばれた若狭神宮寺が建っている。この地は最初に若狭比古神が居所としたところと伝えるが、現本堂は天文22年(1553)に朝倉義景により再建された重要文化財で、その内部には仏と共に神が祀られ、神仏分離以前の神宮寺の姿を留める貴重な建物と言うことができる。

 若狭神宮寺の著名な行事が、毎年3月2日に行われるお水送りの神事である。神宮寺で大護摩法要が営まれた後、遠敷川に沿って約1.8キロ奥地の鵜の瀬まで、松明の行列を連ねて御香水(おこうずい)が運ばれ、遠敷川に注がれる。この御香水が10日をかけて大和に流れ着き、東大寺・二月堂の前にある若狭井という井戸に届くとされている。

 春を呼ぶと言われる奈良・東大寺のお水取り、正確には、二月堂で行われる十一面観音悔過(けか)という仏事で、修二会(しゅにえ)と呼ばれる。大仏開眼供養の行われた天平勝宝4年(752)に実忠という僧が始修し、以来毎年行われてきた。現在では、3月1日より二週間、練行衆と呼ばれる僧により修されるが、3月12日の夜半に若狭井で御香水が汲み上げられ、二月堂本尊の十一面観音に供えられる。

 この修二会に於いて、仏前で有縁の神々の名前が読み上げられる。二月堂の縁起によれば、若狭の遠敷明神すなわち若狭比古神が、遠敷川で釣りをしていて遅参したことから、そのお詫びとして、二月堂の前に御香水となる清水を涌き出させ、この閼伽井(あかい)を若狭井と称したという。確かに、若狭と大和を結ぶライン上には、多くの十一面観音像が遺されており、この観音に対する信仰が盛んな地域であったことが認められる。

 神と仏の交わりという点では、東大寺もまた、盧舎那大仏造立に際して全国の諸神祇を率いて協力を申し出た豊前・宇佐の八幡大神を境内に勧請しており、現在も二月堂の南方に鎮守社・手向山八幡宮として祀られている。奈良時代という早い段階でこのような神仏習合の兆しを窺わせ、若狭と大和の信仰に相通じる様相を見て取ることができよう。

 先に触れたように、若狭比古神・姫神は当初唐人の姿で現れたという。越前・敦賀の都怒我阿羅斯等(つぬがあらしと)伝承と同様に、 明らかに大陸・半島から渡来した文化、信仰の性格を有しており、日本海に面する若狭の地理的条件を反映したものと受け取られる。ちなみに、宇佐・八幡大神も渡来系文化の要素を色濃く有する神であり、宇佐八幡社の境内には、奈良時代前半から神宮寺である弥勒寺が建っていた。

文学部

本郷 真紹教授

専門分野:日本古代史