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三都近隣諸国の風土記

Vol.6
会報2021年 夏号掲載

大和

 奈良盆地の南部、和銅3年(710)の平城遷都まで都であった藤原京の内部に位置し、その中心に置かれた藤原宮を取り囲む形で三角形の三点を構成する三つの山、畝傍(うねび)山・天香久(あまのかぐ)山・耳成(みみなし)山は、大和三山と総称される。大和の代表的な景観として知られるこの三山は、万葉歌にも題材として取り上げられた。

 香具山は 畝傍(うねび)ををしと 耳梨(みみなし)と 相争ひき 神代(かみよ)より かくにあるらし 古(いにしへ)も 然(しか)にあれこそ うつせみも 妻を争ふらしき (巻1ー13)

 中大兄(なかのおおえ)皇子が詠んだ歌で、神代に起こった三山の間でのいわゆる三角関係が詠み込まれている。すなわち、畝傍山をめぐって天香具山と耳成山が争っているのであるが、ここで、万葉仮名で「雲根火雄男志等」と表記される「畝傍ををしと」の部分が問題となる。「雄男志」の解釈によって三山の男女比定が異なり、「雄々し」とすれば「勇ましい」という意味で、畝傍山は男性に見立てられ、「を愛し」「を惜し」であれば、女性に対する思いを表す可能性が高いことになる。

 詠み手の中大兄皇子と言えば、大化元年(645)に蘇我入鹿を暗殺し、孝徳天皇のもとで皇太子として大化改新と呼ばれる政治改革を主導し、即位ののち、近江大津宮への遷都や近江令の制定、庚午年籍の作成を進めた天智天皇として、多くの事績が知られている。その同母弟で皇太弟とされたのが大海人(おおあま)皇子、すなわちのちの天武天皇であった。この兄弟の間で、著名な女流歌人である額田王(ぬかたのおおきみ)の争奪が起こった。

 額田王は、当初大海人皇子の妃となり、十市(とおち)皇女を儲けるが、のちに天智天皇の室に入る。十市皇女は、天智天皇の子で異母兄(弟)にあたる大友皇子に嫁ぐ。すなわち、額田王にとって天武元年(672)の壬申の乱は、前夫と娘婿との間で生じた皇位をめぐる争いということになり、大友皇子は戦いに敗れて自経し、十市皇女もその6年後に世を去る。

 中臣(藤原)鎌足の伝記によれば、天智6年(667)に遷都した近江大津宮で、天皇が群臣を招いて催した酒宴が酣(たけなわ)になった時、大海人皇子が長槍で敷板を刺しぬくという事件が起こった。激怒した天皇は大海人皇子をその場で処罰しようとしたが、臨席した中臣鎌足が天皇を諫めて止めさせたという。丁度この頃に、額田王の夫が大海人皇子から天智天皇に替わったと考えられることから、大和三山の歌を、この三人の関係を反映したものと捉える向きもある。

 当時の宮廷社会に波紋を呼んだ額田王、多くの歌が伝わるが、その秀歌の中には、天智天皇が中臣鎌足に詔して春の山と秋の山の優劣を競わせた際、これに応えて彼女が詠んだという歌が見えている。

 冬ごもり 春さり来れば 鳴かざりし 鳥も来鳴きぬ 咲かざりし 花も咲けども 山をしみ 入りても取らず 草深み 取りても見ず 秋山の 木の葉を見ては 黄葉をば 取りてそしのふ 青きをば 置きてそ嘆く そこし恨めし 秋山そ我は (巻1ー16)

 どうやら額田王は、秋の山がお気に入りであったようである。

文学部

本郷 真紹教授

専門分野:日本古代史