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三都近隣諸国の風土記

Vol.7

河内

 河内は、西は大阪湾と摂津、東は生駒・金剛の山地を境に大和と接した。 西国から瀬戸内海を経由して到来した人々と物資が、朝廷の所在する大和へと向かう途次にあたり、淀川・大和川の水系で生産性も高かったこの地域には、多くの渡来人が居住した。現在でも、各地の名称や文化財にその痕跡が認められる。

 北河内の枚方には、8世紀半ばに百済王敬福(くだらのこにきしきょうふく)によって建立されたと伝える百済寺の遺跡が、史跡公園として整備されている。百済王氏は、7世紀前半に渡来した百済の王子・禅広王を祖とする一族で、その子孫にあたる敬福は、陸奥の国守在任時の天平21年(749)に、同国小田郡(現・宮城県涌谷町)で金が産出したことを報告した。日本史上初となる金の産出であり、当時進められていた盧舎那大仏造立事業に貢献することになった。

 この事業は、天平12年に聖武天皇が難波に行幸した際に、立ち寄った河内国大県郡の智識寺(現・柏原市)で丈六の盧舎那仏像を拝したことがきっかけとなって、3年後に開始されたものである。智識とは民間の仏教信仰者を意味し、その募財により建てられた寺院であった。大和川の流路に沿う形で、智識寺をはじめ、山下寺、大里寺といった六つの寺院が南北に立ち並んでいたが、 聖武天皇の跡を継いだ娘の孝謙天皇も、天平勝宝8歳(756)の難波行幸の際に、この六寺を参拝している。

 六寺の東方には竹原井行宮があり、難波行幸の際に辿る官道が通っていた。大和川を挟んだ南方にも、河内国分寺をはじめ古代寺院の遺跡が残っており、河内国府に近いこの地域は、多くの寺院が林立する、まさにテクノポリスとも言うべき光景が展開したと推察される。当時の寺院は、最先端の建築技術と豪壮な規模、華美な装飾でもって造営された、文化を象徴する建造物であった。

 その西方には、日本で2番目の規模を誇り応神天皇陵と伝える誉田御廟山(こんだごびょうやま)古墳を中心とする古市誉田古墳群があり、周囲は濃密に渡来人が居住した地域として知られる。誉田御廟山古墳の南、日本武尊(やまとたけるのみこと)の陵墓である白鳥陵古墳東方の古市は、応神天皇の時代に百済から来朝して『論語』と『千字文』を伝えた王仁(わに)の後裔氏族とされる文氏(西文氏、かわちのふみうじ)の本拠地で、7世紀前半に建立された氏寺の西琳寺が残っている。

 一方、誉田御廟山古墳西方の野々上から藤井寺、高鷲にかけての地には、王仁の渡来より150年ほどのちに百済より渡来した王辰爾(おうしんに)の一族である船氏や白猪氏(葛井氏)が居住していた。王辰爾は、船の賦(みつぎ)を数えた功で船の氏名(うじな)を賜ったという。税の計算といった出納や半島との交渉などに優れた力を発揮したとみられ、朝廷の三蔵(財務)を管轄した大臣・蘇我稲目や馬子の配下で活躍した。聖徳太子ゆかりの寺院として「中の太子」と呼ばれる野中寺は船氏の氏寺と言われ、また藤井寺市の名称の由来となった葛井寺は葛井氏の氏寺で、国宝の十一面千手千眼観音菩薩坐像を安置する。

 日本に法相宗を伝えた道昭、藤原仲麻呂の配下で少僧都として行政を担った慈訓はともに船氏、慈訓と同時期に少僧都の任にあった慶俊は葛井氏の出身である。加えて、渡来系氏族ではないが、光明皇后の庇護を受けて僧正の地位についた玄昉、桓武天皇の尊崇を受けた善珠は阿刀(跡)氏、称徳天皇に寵遇された道鏡は弓削氏というように、河内の氏族出身の僧が、奈良時代の仏教の興隆、文化の創出に重要な役割を果たした。

 ちなみに、広い地域で社会事業を展開し、人々の救済に努めた著名な行基もまた、その出身地である大鳥郡が河内より分離して和泉の一部となる以前の、河内出身の僧であった。

文学部

本郷 真紹教授

専門分野:日本古代史