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三都近隣諸国の風土記

Vol.8

和泉

 大阪府の南部に相当する和泉国は、もと河内国の一部であったが、霊亀元年(715)に即位した女帝の元正天皇が珍努(茅渟、ちぬ)宮をこの地に営み、和泉・日根・大鳥の三郡が河内から独立して、特別行政区の和泉監(げん)とされた。珍努宮は和泉宮とも呼ばれ、その名は、この地に接する大阪湾が茅渟(黒鯛の別名)の海と称されたことに由来する。のち、和泉国は一旦河内国に併合されたが、天平勝宝9歳(757)に再び分離して和泉国となった。元正天皇は霊亀3年以後、幾度かこの宮を訪れ、甥の聖武天皇に譲位して太上天皇となった後も、天平16年(744)に行幸している。

 和泉国の北部、泉北と呼ばれる地区に、光明池という灌漑用のため池がある。その名は、天平元年に聖武天皇の皇后となった藤原光明子が、近隣の浄福寺という寺院で生まれたという伝説に因んでいる。その伝説は、以下のようなものである。

 和泉郡出身の智海という僧が、同郡宮里の瀧山で修行していた。この智海を慕う雌鹿が彼の尿を嘗めて懐妊し、女子を出産した。智海はその女子を近隣の老女に託した。七歳になった女子が、田植えの作業を行う老女の側で遊んでいたところ、槇尾寺に参詣して平城京に戻る藤原不比等が近くを通りがかった。不比等は田の中に全身より光を放つ女子を見出し、老女より預かって平城京に連れ帰った。この女子は光明子と名付けられたが、年長じて華麗な女性に育ち、聖武天皇の寵愛を受けるところとなる。

 光明皇后は仏教の信仰心が厚く、多くの寺院を創建した。自身が育った和泉の地にも伽藍を建立して安楽寺と名付け、この安楽寺は承和6年(839)和泉の国分寺とされた。国分寺は光明皇后が聖武天皇に建立を勧めたと伝わるが、国分寺建立詔の出された天平13年段階で和泉監は河内国に併合されており、和泉国が成立したのちも、永らく国分寺は置かれていなかった。この時初めて、既存の安楽寺を国分寺として、講師や僧を配置するように規定されたのである。

 藤原光明子は、のちに夫となる聖武天皇と同じ大宝元年(701)に生まれた。父は律令体制の確立に貢献した藤原不比等、母は天武天皇以来後宮に仕えて隠然たる力を有した命婦・県犬養三千代(あがたのいぬかいのみちよ)で、父母共に歴代天皇の側近として活躍した。或いは、その母が聖武天皇の乳母であった可能性も想定される。

 母の出自である県犬養氏は、天皇家の直轄地である河内の県を管理した一族と目され、藤原光明子の諱(いみな)である安宿媛(あすかべひめ)も、河内国安宿郡に因むものと考えられるが、和泉の地域に所在した茅渟県とする説も見えている。

 同類の光明皇后生誕譚は三河の鳳来寺にも存在し、安楽寺と同様に光明皇后の創建といわれる寺院であることから、その関係を意識して生まれた伝承とも考えられる。ただ、和泉の場合は、光明子個人の話題に止まらない。

 県犬養三千代が前夫である美努王(みぬおう)との間に儲けたのが葛城王、即ち橘諸兄で、諸兄は光明皇后の異父兄に当たる。天平9年、藤原武智麻呂ら不比等の四子が天然痘により相次いで亡くなり、代わって政権を担ったのが、橘諸兄である。その諸兄の墓と伝える貝吹山古墳が、行基の開いた久米田寺(現・大阪府岸和田市)の西側にあり、近くには光明皇后の墓とされる光明塚古墳も所在するのである。

 真偽の程はさておき、このような光明子ゆかりの遺跡・名称は、生誕の地とされる浄福寺だけでなく、その境内裏手にある母鹿の足跡石や、藤原不比等が光る女子を見出したとされる照田光田という地名、さらには、平城京に連れて行かれる光明子を母鹿が見送ったという女鹿坂など、近隣で複数見出す事が可能であり、古代史のロマンを漂わせている。

文学部

本郷 真紹教授

専門分野:日本古代史