1. ホーム
  2.  > 
  3. 三都近隣諸国の風土記
  4.  > 
  5. Vol.10

三都近隣諸国の風土記

Vol.10
会報2021年 冬号掲載

紀伊

 牟婁温湯(むろのゆ)といえば、斉明天皇や持統天皇といった古代の女帝が行幸したことで知られる名湯である。紀温湯とも表記されるこの湯は、現在も多くの客を集める紀州灘沿岸の白浜温泉をさすと考えられるが、熊野山中の湯の峰温泉とする説もある。大和からすれば紀伊は隣国で、神武天皇がこの地から大和に入ったという伝承があるように、朝廷と縁の深い地域であった。

 史上に牟婁温湯が初めて登場するのは、『日本書紀』斉明三年(657)九月条で、大化改新という政治改革を推し進めた孝徳天皇の皇子である有間皇子が湯治に訪れ、この地の景観を褒めた。それを耳にした斉明天皇が、翌年10月、皇太子の中大兄皇子等と共にこの温湯をたずねたが、この時悲劇が起こった。

 孝徳天皇は、皇極4年(大化元年、645)6月に起こった、中大兄皇子・中臣鎌足等による蘇我入鹿暗殺に始まる乙巳の変で蘇我本宗家が滅んだ後、姉である皇極天皇の譲位を受けて即位した天皇である。中大兄皇子を皇太子とし、新たに難波宮に遷都して政治の刷新を図ったが、やがて中大兄をはじめとする多くの要人と対立し、皇極上皇や中大兄らは大和に引き上げ、天皇一人が難波に取り残されて崩御することになる。その後、皇極上皇が重祚して斉明天皇となり、中大兄皇子が朝政を取り仕切った。

 蘇我入鹿が天皇への擁立をもくろんだ古人大兄皇子は、乙巳の変後、皇極天皇から譲位を打診された軽皇子が天皇に推挙したのに対し、これを固辞して出家し、吉野に隠棲した。結局軽皇子が即位して孝徳天皇となるが、程なく謀反を企てたとして中大兄皇子により追討された。また、蘇我入鹿暗殺に加担し、事後右大臣の地位についた蘇我倉山田石川麻呂も、大化5年(649)に謀反を訴えられ、氏寺である山田寺で非業の最期を遂げることとなった。

 このように、中大兄皇子が政敵と目される人物を次々と葬り去っていたことから、孝徳天皇崩御により中大兄皇子にとって好ましからぬ存在となった、その遺児である有間皇子は、粛清を恐れて精神的な病を装ったとされる。

 斉明天皇や中大兄皇子が牟婁温湯に出かけた際、大和に留まっていた有間皇子に対し、留守官の蘇我赤兄(あかえ)が斉明天皇の失政を訴えた。気を許した有間皇子は、赤兄に挙兵の志を告げる。すると赤兄は兵を遣わして有間皇子の宅を包囲し、皇子を捕捉して紀伊の牟婁に送致する。中大兄皇子自ら有間皇子を訊問し、反逆の理由を尋ねると、有間皇子は、「天と蘇我赤兄とが承知していることで、自分には全く理解できない」と、謀略を訴えたという。

 その後有間皇子は、藤白坂(和歌山県海南市藤白、但し異説もある)に連行されて絞殺された。有間皇子が自身を悲傷して詠んだ二首の歌が『万葉集』に収められている。

 有間皇子が自ら傷みて松ヶ枝を結ぶ歌二首
磐代(いはしろ)の 浜松が枝を 引き結び ま幸(さき)くあらば またかへり見む(巻2ー141)
家にあれば 笥(け)に盛る飯(いひ)を 草枕 旅にしあれば 椎の葉に盛る(巻2-142)

文学部

本郷 真紹教授

専門分野:日本古代史