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三都近隣諸国の風土記

Vol.11

伊賀

 大和国山辺郡から伊賀国名張郡(三重県名張市)にかけて、東大寺に木材を供給する杣が存在した。板蠅杣(いたばえのそま)で、天平勝宝7歳(755)に、伽藍造営の途上にあった東大寺に孝謙天皇が施入した杣であるが、そこで働く杣人と呼ばれた人々は、伊賀国の黒田村で自らの生活のために田地を設営し、杣内での出作(でづくり)を行った。平安中期の11世紀には、杣の領域が確定されると共に、そこの住民には、臨時雑役(りんじぞうやく)と総称される様々な負担の免除が権利として認められ、 黒田荘という東大寺領荘園の基盤が成立した。

 東大寺は荘園の拡大を図り、荘民は荘園以外の公領にも出作に赴いて、その田地にも権利の適用を訴え、また近隣の農民も、利点に着目して寄人(よりうど)という荘園所属の民になることを望んだことから、公領侵害の危機感を抱いた国司は、黒田荘の出作地であることを標示する札を引き抜き、官物(租税)の納入を要求した。東大寺がこれを拒否すると、実力行使に出て家屋を焼き出作地の収公を宣したため、争論が生じて、朝廷の裁断を仰ぐことになった。改めて荘域の認定が行われ、その面積は一旦制限されたが、逆に、この時公認された荘域は、将来にわたって国司の使者の立ち入りや課役免除の特権が保証され、不輸不入の権限をもつ荘園が確立することになった。

 関連史料が多く残存し、荘園成立の具体的な経緯が知られることから、東大寺領黒田荘は、土地制度史の概説等で多く取り上げられている。こののちも争論は頻繁に発生し、現地の管理者である荘官と荘園領主である東大寺との間でも、やがて対立が生じた。鎌倉後期には、現地を押さえて東大寺への年貢の納入拒否を図る勢力は、領主から悪党(黒田悪党)と呼ばれ、その禁圧が幕府に訴えられた。

 伊賀国の南部に位置した黒田荘に対し、北部の阿拝郡(あはいぐん・あえぐん、三重県伊賀市)には、同じく玉滝荘という東大寺領荘園があった。黒田荘と同様に、玉滝杣という木材供給地から発展したが、この玉滝杣は、もと橘氏の墓地として伝わった地を10世紀に橘元実が杣として東大寺に寄進したものである。この杣を拠点に東大寺が領地の拡大を図り、11世紀中葉に国司との間で争いが生じたが、のち、この地に荘園を営んだ平氏との争論が生じ、鎌倉末期には、名誉の大悪党と呼ばれた服部持法ら悪党に押領されるという、黒田荘とよく似た経緯を辿った。

 黒田荘の南、名張市赤目町一ノ井にある真言宗豊山派の極楽寺には、松明(たいまつ)講という組織があり、毎年2月に松明山から80~100年経った桧を伐り出し、1尺2寸に調整した松明の木片を青竹の両端に括り付けた5荷を製作する。3月10日に調進の法要が営まれ、その2日後に、松明衆の一団は5荷を笠間峠を越えて東大寺に搬入し、この日二月堂で行われている、俗にお水取りと呼ばれる修二会(しゅにえ)に参詣して、翌朝名張に戻る。彼らが運んできた松明は、一年間保管され翌年の修二会の行法に用いられる。

 極楽寺は、鎌倉時代初めの後鳥羽天皇の時代に、この地で勢力をもっていた道観という長者により開創されたと伝える。道観は若狭の南無観という長者と協力して、平氏の焼き討ちを受けた東大寺の二月堂を再建したが、この道観長者が二月堂への松明の寄進を遺言したという。一方、東大寺に伝わる古文書には、この地にいた聖玄という僧が、宝治3年(1249)松明の費用にと6段の田地を寄進したとあり、聖玄は道観長者の末子・小太郎であったとも言われている。その頃から750年以上にわたり、毎年松明の調進が続けられてきたことになる。

 大和に隣接する伊賀は、少なからずその政治や文化の影響を受け、有力な寺院と関係の深い位置にあったが、とりわけ東大寺との繋がりについては、多くの伝承や残存する史料に興味深い内容が見て取られる。

文学部

本郷 真紹教授

専門分野:日本古代史