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三都ゆかりの地域の風土記

 
Vol.2

伊予の湯泉

 日本には、名湯と呼ばれる温泉がたくさんあるが、その中でも、有馬温泉・白浜温泉とともに日本三古湯の一つに数えられる伊予(愛媛)の道後温泉は、古代より多くの伝を残している。

 伊予国風土記は、次のような話を伝えている。葦原中国(あしはらなかつくに)の国作りを進めていた大穴持命(おおあなもちのみこと、大国主命)が、協力者である宿奈毗古那命(すくなひこなのみこと)の甦生を図るべく、豊後水道を挟んで対岸・大分の速見郡の湯(別府温泉)を、地下水道を通じて伊予に引き込み、その身体を湯に浸した。すると、宿奈毗古那命はすぐに覚醒し、「しばらく寝込んでしまった」と、何事もなかったように言葉を発して、力強く足踏みをしたが、その足跡が湯の中の石に残ったという。この石は、現在道後温泉本館の北側に「玉の石」として所在する。

 その後、景行天皇、仲哀天皇、聖徳太子、舒明天皇、皇極天皇と、歴代の天皇や皇后・皇子がこの湯を訪れた。法興6年(596)に高句麗僧慧慈や葛城臣小楯を伴って来訪した聖徳太子は、「神の井」とされたこの温泉を、その環境も含めて大いに褒め称えた文章を作したが、これを刻んだ碑が湯の岡の辺に建てられた。多くの見学者を導いたこの岡は、伊社邇波(いさにわ)の岡と呼ばれるようになった。この岡に式内社・伊佐邇波神社が鎮座し、14世紀に伊予国守護・河野氏がここに湯築城を築いた際に、神社は現在の道後山に遷された。寛文7年(1667)に建立された八幡造の本殿や申殿(もうしどの)などの社殿は、重要文化財に指定されている。

 舒明天皇11年(639)、天皇は皇后と共にこの地の伊予温湯宮(いよのゆのみや)に行幸し、5ヶ月間滞在した。その皇后が二度目の皇位に即いた斉明天皇の6年(660)、唐と新羅の連合が百済を滅ぼし、百済の復興を目論んだ遺臣・鬼室福信が、百済王子・豊璋の返還と軍事支援を求めてきた。時の朝廷はこれに応じ、翌7年、遠征軍を編成して派遣すべく、天皇自ら出御し、御座船で瀬戸内海を西へと進む。目的地である北九州・筑前に至る途上、一行は伊予の熟田津(にぎたづ)に寄り、石湯行宮(いわゆのかりみや)に留まった。

 熟田津に 舟乗りせむと 月待てば 潮もかなひぬ 今は漕ぎ出でな 
(『万葉集』1-8)

 額田王の代表作として教科書などにも取り上げられるが、山上憶良によれば、実はこの歌は、かつて夫・舒明天皇と同行したことを懐古した斉明天皇自らが詠んだ歌であり、額田王の歌は、これとは別に四首あったという。この筑紫行幸には、皇太子・中大兄皇子やその弟の大海人皇子らも同行していた。大海人皇子の子である大伯(おおく)皇女や草壁皇子は、この行幸の途上に生まれている。斉明天皇は、11年7月に筑前の朝倉橘広庭宮で崩御する。

 奈良時代を代表する万葉歌人・山部赤人は、伊予国の来目部小楯(くめべのおだて)の末裔といい、伊予の温泉に赴いて次の長歌と短歌を詠んだ。道後温泉本館の「神の湯」男湯東浴室の湯釜には、長歌が刻まれている。

 皇神祖(すめろき)の 神の命(みこと)の 敷きいます 国のことごと 湯はしも さはにあれども 島山の 宜しき国と こごしかも 伊予の高嶺の 射狭庭(いざには)の 岡に立たして 歌思ひ 辞(こと)思ほしし み湯の上の 木群(こむら)を見れば 臣の木も 生ひ継ぎにけり 鳴く鳥の 声も変はらず 遠き代に 神さび行かむ 行幸処(いでましところ)
(『万葉集』3-322)

 ももしきの 大宮人の 熟田津に 舟乗りしけむ 年の知らなく
(『同』3-323)

文学部

本郷 真紹教授

専門分野:日本古代史