1. ホーム
  2.  > 
  3. 三都ゆかりの地域の風土記
  4.  > 
  5. Vol.4

三都ゆかりの地域の風土記

 
Vol.4

吉備の古代

 吉備の地域は、大和に引けを取らず、古代史の宝庫である。 備中一宮の吉備津神社(現・岡山市)は、第10代崇神天皇の時代に四道将軍の一人としてこの地域に遣わされた吉備津彦命を主祭神とし、社殿の一つ・御釜殿(国重文)で行われる鳴釜の神事は、吉備津彦命に成敗されこの地に葬られた温羅(うら)という鬼の首に因むと伝えられる。本殿は比翼入母屋造りという独自の様式の屋根をもつ室町期の建造物で、拝殿と共に国宝に指定されている。 備前一宮である吉備津彦神社(現・岡山市)、備後一宮の吉備津神社(現・広島県福山市、本殿は国重文)も、同じく吉備津彦命を主祭神としている。

 古伝承を裏付けるように、この地域には、畿内との関係を窺わせる多くの遺跡が存在する。弥生時代の墳丘墓である楯築(たてつき)遺跡などで出土するこの地域特有の特殊器台と呼ばれる土器は、大和の初期古墳である箸墓(はしはか)古墳等で見つかっている。また、造山古墳(墳丘長350m、5世紀前半)と作山古墳(同282m、5世紀中葉)は、それぞれ全国で第4位・第10位の規模をもつ前方後円墳で、大和に匹敵する勢力がこの地を治めていたことが想定される。ちなみに、『日本書紀』には、5世紀後半の雄略天皇の時代に、吉備下道臣前津屋(しもつみちのおみまえつや)や吉備上道臣田狭(かみつみちのおみたさ)といったこの地の有力豪族が、天皇に反旗を翻したとする所伝が見えている。

 この田狭や、田狭の子である弟君(おときみ)、吉備海部直赤尾(あまのあたいあかお)といった人物が、朝鮮半島に渡ったとされるなど、対外関係においても多くの足跡を残していることに興味が引かれる。時代が下るが、斉明6年(660)百済救援のため朝鮮半島への出兵を決意した天皇は難波に移御し、翌年には瀬戸内海を西進して筑紫へと向かうが、その途上、備中国下道郡(評)(現・岡山県倉敷市)で2万の兵力を得た。喜んだ天皇はこの地を二万郷(にまごう)と名付けたといい、現在も上二万・下二万という地名が残っている。同じく、この時従軍し、無事帰還することを神祇に祈願した備後国三谷郡(現・広島県三次市)の大領は、帰国後三谷寺を建立したという。

 この地域の出身者で、中央で活躍した代表的な人物と言えば、吉備真備(きびのまきび)を挙げることができる。真備は上記の備中国下道郡を本拠とする豪族・下道氏の出身で、阿倍仲麻呂らと共に霊亀2年(716)留学生として唐に渡り、天平7年(735)多数の書籍を携えて帰国する。光明皇后らの寵遇を受け、橘諸兄政権下ではブレーンとして活躍したと目され、天平12年の藤原広嗣の乱は、僧・玄昉と真備の排除を求めて引き起こされた。一方で、女性初の皇太子である阿倍内親王(のちの孝謙天皇)の学士(教育係)を務め、吉備朝臣の氏姓を賜り、従四位上の位に昇ったが、藤原仲麻呂の政権下で冷遇され、九州に追いやられた。天平宝字8年(764)その仲麻呂と対立した孝謙太上天皇により真備は中央に戻され、争乱に際しては軍務を参謀して太上天皇方を勝利に導いた。以後、重祚した称徳天皇により、地方豪族出身としては異例の右大臣にまで昇任して政務に携わった。

 この称徳朝で、天皇が仏教の師と仰ぎ、太政大臣禅師から法王の地位に昇った道鏡の皇位継承問題が勃発する。神護景雲3年(769)、豊前・八幡神の託宣の真偽を確かめるべく、宇佐に派遣された和気清麻呂は、天皇の期待に背き道鏡の即位を戒める報告を行って勘気に触れ、別部穢麻呂(わけべのきたなまろ)と改称して大隅国に配された。その後光仁天皇により召還されて本位に復したが、この清麻呂も、もと吉備藤野和気真人清麻呂と称されたように、備前国藤野郡(のち和気郡、現・備前市、和気町等岡山県東部)を本拠とする氏族の出身で、桓武朝には、美作・備前二国の国造の地位にあった。

 和気清麻呂が建立し、境内にその墓が営なまれたのが高雄山寺、のちの神護寺(現・京都市右京区)で、清麻呂の子で桓武天皇の信任を得た広世や真綱がこの寺に最澄を招いて法会を催し、天台宗の宣揚に寄与した。のちには、空海もこの寺に入り、ここで最澄やその弟子に灌頂を授け、真言宗の拠点寺院の一つとなるなど、平安仏教の胎動に大きな役割を果たすところとなった。

文学部

本郷 真紹教授

専門分野:日本古代史