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三都ゆかりの地域の風土記

 
Vol.5

大伴家持と越中国

 『万葉集』20巻・4500余首のうち1割を超える多くの作品を遺すのが、選者ともいわれている大伴家持である。その名が広く知れ渡り、代表的万葉歌人として押しも押されもせぬ位置を占める家持であるが、彼は古代の名族・大伴氏を代表する存在で、律令貴族としてさまざまな官職を歴任した。

 家持と同様に歌人として有名な大伴旅人の嫡男として生まれた家持は、天平17年(745)に従五位下に昇叙され、貴族の仲間入りを果たす。その翌年、国守として越中に赴任し、当地の優れた情景を詠み込んだ多くの歌を作した。当時越中の国府は、富山湾沿岸、射水郡の地(現・富山県高岡市伏木国府)に置かれていた。

 『万葉集』巻17に収載された大伴家持の歌は、まるで歌日記のように、詠んだ月日や場所など、その経緯まで克明に記されている。家持は、東に富山湾を隔てた地で、遙望する立山連峰の情景を歌に詠んだ。天平19年4月27日に作した「立山の賦一首あわせて短歌」には、神山としての立山の雪渓が記される。

 天離(あまざか)る 鄙(ひな)に名かかす 越の中 国内(くぬち)ことごと 山はしも しじにあれども 川はしも 多(さは)に行けども 皇神(すめかみ)の 領(うしは)きいます 新川の その立山(たちやま)に 常夏に 雪降り敷きて ・・・
 立山に 降り置ける雪を 常夏に 見れども飽かず 神からならし

(巻17-4000・4001)

 紛れもなく、既に大伴家持の時代から、立山は神のいます山として崇拝の対象とされていた。霊山・立山に対する信仰は、本格的に密教が導入され、やがて浄土信仰が盛んとなる平安時代以後に発展し、多くの参詣者(登拝者)を集めることになる。それ以前より、季節により容貌を変じる立山は、越前の白山と同様に、神の山として受け止められていたのである。

 大伴家持が在任した当時、西隣の能登半島も、越中国の一部に組み込まれていた。そのため、国守である家持はこの地域を巡検し、各地の風景を歌に詠み込んでいる。

 気太(気多)神宮に赴き参り、海辺を行く時に作る歌一首
 之乎路(しをぢ)から ただ越え来れば 羽咋(はくひ)の海 朝なぎしたり 舟梶(ふねかぢ)もがも

(巻17-4025)

 能登郡にして香島の津より船を発し、熊来村をさして往く時に作る歌二首
 とぶさ立て 舟木伐るといふ 能登の島山 今日見れば 木立繁しも 幾代(いくよ)神(かむ)びそ
 香島より 熊来をさして 漕ぐ舟の 梶とる間なく 京師(みやこ)し思ほゆ

(巻17-4026・4027)

 天平勝宝3年(751)7月、家持は少納言に任ぜられ、越中の地を去る。5年ぶりに平城京に戻ると、朝廷では、橘諸兄から藤原仲麻呂へと政権の推移が生じていた。その藤原仲麻呂政権下で天平宝字元年(757)に生じた橘奈良麻呂の乱では、越中赴任時に配下の掾(国司の第三等官)であった大伴池主や、大伴古麻呂・大伴古慈斐といった同族の官人が連座して処罰され、家持自身も、同7年に藤原良継が企てたクーデター計画に加担するが、良継が自分一人の謀略と主張したことで、何とか難を逃れた。

 のち、桓武天皇即位直後の延暦元年(782)に生じた氷上(ひがみ)川継の乱にも、連座して一旦官職を解かれる。さらに、同4年の藤原種継暗殺事件においては、その直前に中納言従三位という公卿の地位にあるまま死去した家持であったが、謀議に加わっていたとして除名され、子息も流罪となった。このように、万葉歌人としての優雅なイメージとは裏腹に、家持は波瀾万丈の生涯を送ることになるのである。

文学部

本郷 真紹教授

専門分野:日本古代史