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三都ゆかりの地域の風土記

 
Vol.6

会報2022年 夏号掲載
下野の仏教文化

 8世紀初頭、下毛野子麻呂(しもつけののこまろ)なる官人が、刑部親王や藤原不比等らと共に大宝律令の撰定に携わり、諸王・諸臣に対して大宝令を講説した。その功績により禄や田・封戸等を賜った子麻呂は、兵部卿や式部卿などの要職を歴任したが、下毛野氏という氏族は下野国(現・栃木県)の国造で、その祖先は、崇神朝に東国に派遣された豊城入彦命(とよきいりひこのみこと)であるという。君(きみ)姓の下毛野氏は、天武13年(684)に朝臣の姓が与えられる。この天武朝に、一族の故郷である下野の地に薬師寺が建立された。一説には、子麻呂の創建と伝える。

 下野薬師寺がいつの時点で官寺としての扱いを受けることになったのかなど、定かでない部分も大きいが、天平5年(733)にはこの寺院の造営にあたる官司が存在しており、次第に伽藍が整えられたと考えられる。天平勝宝元年(749)、寺院単位で開墾の許される田地の面積が、法隆寺や四天王寺など中央の官寺や筑紫の観世音寺と並び、500町と規定され、間違いなく東国の官寺として扱われていた。

 同6年(754)、唐より鑑真が来朝した年に、薬師寺の行信なる僧が厭魅(えんみ)を行ったかどでこの寺院に流された。行信と言えば、聖徳太子の功績顕彰や斑鳩宮跡地に法隆寺東院伽藍を造立することに尽力した僧で、現存する法隆寺夢殿にその塑像(国宝)が安置されている。天平十年代には、僧綱として仏教行政を取り仕切った痕跡を留めるが、その出自など謎の部分が大きく、宇佐八幡神の神官と結託して引き起こしたという厭魅事件も、具体的な中身は分からず、下野に配されて以降の動向も全く定かでない。

 行信配流の16年後の宝亀元年(770)に、同じくこの地に配流となったのが、著名な道鏡である。称徳天皇の寵遇を受け、太政大臣禅師から法王へと昇任し、さらには、宇佐八幡神の託宣により皇位の継承が取り沙汰された道鏡であるが、女帝の崩御により失脚を余儀なくされ、造下野薬師寺別当としてここに遣わされることになる。道鏡は2年後に死去し、庶人の扱いでこの地に葬られた。

 一人前の僧侶となるには、得度と受戒の二つの階梯を経る必要があり、朝廷の公認する受戒の場は、大和の東大寺と、東国の下野薬師寺、西国の筑紫観世音寺の三寺院に設置された戒壇に限られていた。下野の地に東国の戒壇が置かれた理由としては、先述の下毛野子麻呂といった中央で活躍した官人の動向もさることながら、天武朝に多くの新羅人が配されるなど、この地が文化的に先進性を有したことに注目する必要がある。

 下野薬師寺に戒壇が置かれたのは、一説には天平宝字5年(761)とされるが、このころ東国出身で鑑真の教えを受けた道忠という僧が下野に赴き、戒壇の設立に尽くしたと言われる。道忠は、延暦16年(797)に十禅師に任じられて比叡山を下った最澄の要請を受け、一切経の書写を助けたとされる。この道忠門下の円澄が最澄の高弟となり、天長10年(833)第二代天台座主の地位に就く。同じく道忠門下の広智は、弘仁8年(817)東国巡化に訪れた最澄より下野国大慈寺で大乗戒を受けるが、広智が育成した円仁が天台宗の発展に大きく寄与するなど、下野にゆかりのある僧が初期天台教団で要職につき、平安仏教の胎動を導く要因となるのである。

文学部

本郷 真紹教授

専門分野:日本古代史