1. ホーム
  2.  > 
  3. 三都ゆかりの地域の風土記
  4.  > 
  5. Vol.7

三都ゆかりの地域の風土記

 
Vol.7

安芸の造船と長門島(倉橋島)

 推古天皇26年(618)、造船のために河辺臣が安芸国に遣わされた。良材を見つけ伐採しようとしたところ、地元の人が、「この木は雷神の木であるから伐ってはならない」と忠告する。河辺臣は、「たとえ雷神の木であっても天皇の命に逆らうことはできない」と言い、幣帛をささげて人夫に伐採させた。その時大雨が降って雷が落ちた。河辺臣は剣を手でさすり、「雷神よ、人夫を傷つけるな、我が身を傷つけよ」と告げ、雷神の反応を仰いだが、十数度雷が轟いても河辺臣を害することができず、雷神は小さな魚になって木の枝に挟まった。その魚を取って燃やし、船を造ったという。

 7・8世紀を通じて、安芸国で造船を行ったという記事は複数見受けられ、百済や唐への遣使に使用する船舶がこの地で設えられた。沼田郡・安芸郡・高田郡といった各地に、「船木郷」という造船に因む地名の存在が認められる。安芸郡に属する倉橋島はかつて長門島と呼ばれ、中世においても和船の産地として知られ、準構造船という瀬戸内海を航行する細長い船がこの島の浦で建造された。島南部の磯辺と呼ばれた桂浜は、造船に適した砂浜が広がり、江戸時代には、宮島・厳島神社の管絃祭で御鳳輦(ごほうれん、お神輿)を載せて船渡御(ふなとぎょ)を行う御座船(ござぶね)が製作されたが、この地に日本最古という西洋式ドックも設けられ、その跡が残っている。

 造船の地としてだけでなく、安芸国は瀬戸内航路の要衝として重視された。遣唐使船や遣新羅使船は、倉橋島の南東端に位置する鹿老渡(かろうと)の沖合を航行し、長門の浦に寄港した。鹿老渡あるいは磯辺の辺りで停泊し、この地で風や潮を待ったと考えられる。天平8年(736)、遣新羅大使・阿倍継麻呂の一行が磯辺に停泊したが、その時詠まれた歌が『万葉集』に見える。

 安芸国の長門島磯辺に船泊まりして作る歌五首

 石(いは)走る 瀧もとどろに 鳴く蝉の
 声をし聞けば 都し思ほゆ (大石蓑麻呂)

 山川の 清き川瀬に 遊べども
 奈良の都は 忘れかねつも

 磯の間ゆ 激(たぎ)つ山川 絶へずあらば
 またも相見む 秋かたまけて

 恋繁み 慰めかねて ひぐらしの
 鳴く島陰に いほりするかも

 我が命を 長門の島の 小松原
 幾代を経てか 神さび渡る

(巻15・3617~21)

 長門の浦より船出する夜に月の光を仰ぎ観て作る歌三首

 月読(つくよみ)の 光を清み 夕なぎに
 水手(かこ)の声呼び 浦回(うらみ)漕ぐかも

 山のはに 月傾けば いざりする
 海人(あま)の燈火(ともしび) 沖になづさふ

 我のみや 夜舟は漕ぐと 思へれば
 沖辺(おきへ)の方に 梶の音すなり

(巻15・3622~24)

 中世後期、桂浜のある本浦の地は、海賊衆として知られた倉橋多賀谷氏の拠点となり、この地から「倉橋船」と呼ばれた船舶を繰り出して、厳島神社の祭礼に訪れた記録が見える。現存する桂浜神社本殿(八幡宮・重要文化財)は文明12年(1480)に多賀谷氏によって建てられ、周防の守護大名・大内氏から賜りこの神社に奉納された大般若経が伝わるなど、往時の繁栄が偲ばれる。

 江戸時代、倉橋島の鹿老渡は、関門海峡から上方に向かう回船の寄港地として栄えた。日向の木材を扱った豪商・宮林家の江戸末期に建てられた住宅が残るが、参勤交代を行う西国大名の本陣に供されることもあった。一方、李氏朝鮮から幕府に遣わされた朝鮮通信使がこの地に停泊し、宝暦14年(1764)に記された正使の日記に、整備された町並みの様子がうかがわれる。

文学部

本郷 真紹教授

専門分野:日本古代史