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三都ゆかりの地域の風土記

 
Vol.8

藤原広嗣と肥前・松浦郡の知識寺

 天平12年(740)8月、大宰府の官人(大宰少弐)であった藤原広嗣は、時の政治を批判し、頻発する天災もそれが原因として、重用されていた僧正玄昉と下道(吉備)真備の排斥を求める上表を行った。翌月、広嗣は挙兵したが、即座に大将軍・大野東人以下の指揮官が任命され、東海道など五道から17000の兵が召集された。

 朝廷の軍勢は関門海峡を渡り、駐屯所である板櫃鎮(いたびつのちん、現・福岡県北九州市)を制圧した。聖武天皇は大宰府管内の官人や百姓に勅を発し、広嗣に従う者でも改心して広嗣を討ち取ったならば位を授けるとして、翻意を促した。広嗣軍の兵10000騎と追討軍6000人余が板櫃川を挟んで対峙したが、広嗣軍から多くの投降者が出て混乱し、広嗣は弟・綱手らと西方に逃走する。

 広嗣の一行は、肥前国松浦郡の値嘉島(ちかのしま、五島列島の中の島)から船で耽羅島(たんらのしま、現・済州島)に渡ろうとしたが、直前で漂流し、逆風に押し戻されて五島列島の色都島(しこつしま)に着く。広嗣は値嘉島の長野村で捕らえられ、松浦郡の郡家(郡司の役所)に連行され斬刑に処されたと見られる。その知らせは、反乱勃発時に平城京を出て東国行幸の途次にあった聖武天皇の下に届けられた。

 藤原広嗣は、藤原不比等の子である式家・宇合(うまかい)の子で、天平9年に宇合が薨去したのち、従兄弟の乙麻呂や永手と共に従五位下を与えられ、翌年、式部少輔に加えて大養徳国(大和国を当時このように表記した)の国守に任ぜられた。同年末に大宰少弐に転じたが、のちに、これは左遷であり、原因は広嗣が僧正玄昉と対立し、親族を誹謗して混乱させたためとされた。

 当時、僧正玄昉は光明皇后の庇護を受け、皇后宮の一角に設けられた隅寺に居していたことからすれば、広嗣が誹謗した親族というのは、叔母にあたる光明皇后で、左遷に値する所業と見なされたのかも知れない。いずれにせよ、挙兵時の聖武天皇の怒りはすさまじく、上記の勅で即座に斬殺せよと訴えている。

 平城京から恭仁京・難波京へと都が転々とした後、天平17年に平城京に還都する。この後聖武天皇は、重い病気にかかり、一時その生命が危ぶまれるまでに至った。平城宮や恭仁宮の守りが固められ、合わせて京・畿内の寺院や名山で薬師如来を本尊とする悔過(けか)が行われ、また賀茂社や松尾社に奉幣祈祷されるなど、頻発していた地震の恐怖と相俟って、大変な混乱が生じたことが見て取られる。

 この時、かつて勅使として広嗣追討に発遣された阿倍虫麻呂が、豊前の宇佐八幡神社に遣わされ、幣帛が奉じられた。それまで西海道(九州)諸国の動乱や、新羅と緊張が生じた時など、八幡神社への祈願は西国の案件に際してのものであった。何故に聖武天皇の治病祈願として八幡神への奉幣が試みられたのか。あくまで推測の域を出ないものであるが、藤原広嗣の乱との関連性が想定される。

 天平17年 11月、玄昉が僧正の任を解かれ、観世音寺造営のために筑紫に遣わされた。天皇や皇后の厚い信任を受けていた玄昉が、突然筑紫に追いやられ、翌年にはこの地で卒去する。広嗣の霊に害せられたという。そして、玄昉が左遷されたころ、肥前国松浦郡に神宮知識無怨寺・弥勒知識寺が建立され、僧20人が配されて水田20町が施入された。この寺院は、広嗣の廟所近くに設けられた墓寺で、広嗣の慰霊を任務としたと受け取られる。もし、聖武天皇の重篤な病の原因が藤原広嗣の怨恨であると意識されたとすれば、これらの措置は納得のいくことになろう。

 佐賀県唐津市の鏡神社・二ノ宮は、松浦廟宮と呼ばれた広嗣を祭神とする神社で、同市の大村神社は、やはり広嗣を祭神とし、境内にかつて無怨寺という寺院が所在した。知識寺はその神宮寺であったと見なされる。玄昉と並び広嗣から排斥を求められた吉備真備もまた、広嗣の「逆魂」により、天平勝宝2年(750)に筑前に左遷されることになったという。

文学部

本郷 真紹教授

専門分野:日本古代史