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三都ゆかりの地域の風土記

 
Vol.10

西海道(九州)の朝鮮式山城

 天智天皇2年(663)、朝鮮半島南西部の白村江口で、有名な白村江の戦が勃発する。斉明6年(660)に新羅と結んだ唐の軍勢により百済の王城が陥落し、義慈王は唐都・洛陽へと連行された。その後、百済の遺臣・鬼室福信らにより再興が目指され、支援の要請を受けた日本の朝廷は、百済王子の余豊璋を半島に送ると共に救援軍を派遣したが、日本の水軍は大敗を喫し、結果として半島からの撤退を余儀なくされるところとなる。

 その後、崩御した斉明天皇に代わり皇太子として称制(天皇の政務代行)を行った中大兄皇子は、天智3年の末より、唐・新羅の軍が余勢を駆って日本に侵攻する事を警戒し、防御の措置を講じた。対馬・壱岐・筑紫に防人(さきもり)と烽火(のろし)が置かれ、筑紫には水城(みずき)という長大な堤が設けられた。その遺構は現在も福岡県・大宰府政庁跡の西北に残存している。そして、翌4年には、百済から日本に渡来した官人を長門と筑紫に派遣して山城を築かせた。この時、憶礼福留(おくらいふくる)と四比福夫(しひふくぶ)という百済人が築いた筑紫の山城が、大野城と椽城(きのじょう)である。

 大野城は、大宰府政庁北方の四王寺山(大城山)に築かれた朝鮮式山城で、現在の福岡県太宰府市・大野城市・糟屋郡宇美町にまたがっている。標高410mの四王寺山の山腹に、山頂を囲む形で土塁と石塁の城壁が巡る。馬蹄形の脊梁に築かれた城壁は全長8㎞に及び、南北両側は二重の土塁となっている。この城壁に城門と水門が配され、城門址は8箇所確認されている。約70棟の礎石式建物跡があり、炭化した米や、古瓦・墨書土器などが出土した。

 一方、椽城(基肄城)は、大野城と逆方向の大宰府政庁南方約8㎞の、背振山脈の基山に築かれた。現・佐賀県三養基(みやき)郡基山町と福岡県筑紫野市にまたがる。基山は四王寺山とほぼ等しく標高404mの山で、延長5㎞の土塁が巡っている。4箇所の門址があり、最大規模の南門には約30mの石塁が築かれ、その下底部に通水孔が穿たれた部分もある。大野城と同様に30棟以上の礎石式建物があり、やはり炭化米が出土することから穀倉跡と考えられる。城の東南の山麓に2箇所の土塁が確認されており、交通路を遮断する意図をもって設けられた可能性が高い。

 大野城と椽城(基肄城)は国の特別史跡に指定されているが、これら以外にも、同時期に築造された朝鮮式山城が西海道には多く見受けられる。現・熊本県山鹿市と菊池市にまたがる地に位置する肥後の鞠智(きくち)城(国史跡)では、台地上に約3.5㎞の城壁が築かれて城門・水門が配され、八角形の建物が設けられた。また、朝鮮半島に最も近い対馬には、天智6年に金田城(国特別史跡)が置かれた。現・長崎県対馬市美津島町黒瀬の城山に築かれた山城で、城門・水門のある城壁や掘立柱式建物跡が遺り、防人が配置された痕跡もうかがわれる。

 朝鮮式山城は、瀬戸内海沿岸地域から畿内にかけて複数設けられ、烽火のリレーにより敵軍の来訪を即時朝廷に知らせるシステムが整えられた。『日本書紀』や『続日本紀』といった正史に見られるこれらの山城に加え、類似した構造をもち神籠石(こうごいし)と呼ばれた石垣の遺跡にも、史料に記載はないものの同類の防御施設と見なされるものが多い。その実態に緊迫した対外危機意識を見て取る事ができるが、このような意識が逆に国内の勢力の連帯を促し、中央集権体制すなわち律令体制の樹立を促進したことを見逃してはならない。

 朝鮮半島と畿内の宮都を結ぶ交通の要衝に設けられたこれらの施設の多くは、唐や新羅との緊張関係が緩和するとその役割を終え、平安前期の段階までに廃されることになった。 

文学部

本郷 真紹教授

専門分野:日本古代史