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三都ゆかりの地域の風土記

 
Vol.11

飛騨国と両面宿儺

 『日本書紀』の仁徳天皇紀に、飛騨国の宿儺(すくな)という人が登場する。一つの体に二つの顔面があり、二本ずつの手と足をもち、力が強く俊敏な動きを見せた。左右の腰に剣を佩き、四つの手に弓矢を持ち、朝廷の命に従わず、人々を苦しめていたので、天皇は和珥(わに)臣の祖である難波根子武振熊(なにわねこたけふるくま)を遣わし、宿儺を討ち取らせたという。

 両面宿儺として知られる鬼神について、飛騨から美濃にかけて、その伝承が多く残っている。『日本書紀』では悪人として描かれるのに対し、地元の伝承の中には、人々を苦しめた毒をもつ龍を退治した英雄とするものもある。また、文豪・島崎藤村の父で国学者であった島崎正樹(まさき)が一時期宮司を務めた飛騨国一宮・水無(みなし)神社では、その奥宮である位山の主とも伝わり、この位山が神体山で、宿儺が本来の祭神とする説も見える。

 大和の朝廷に逆らって討伐されたことから、飛騨の地域を治めていた豪族を象徴したものと受け取る向きが強いが、一方で、この地域の古寺にも宿儺の姿が多く見受けられる。水無神社の別当寺であった飛騨千光寺(高山市丹生川町)の縁起によれば、宿儺は岩窟の中から出現し、法華経・袈裟や千手観音像を掘りだして、この寺を開いたという。同寺には、64体の円空仏の一つである両面宿儺坐像をはじめ、多くの宿儺像が伝わっている。また、同じく丹生川町の善久寺では、両面宿儺は十一面観音の化現と言われ、十一面観音像と共に両面宿儺像が祀られている。

 『日本書紀』に見られる宿儺の生存年代からすれば、仏教が日本に伝わる以前のこととなり矛盾が生じるが、古くから信仰の対象とされてきたことと相俟って、各寺院を開いた当地の豪族が両面宿儺に置き換えられて伝わったのかも知れない。しかし、本来鬼神即ち在来の神として畏敬の念を抱かれた宿儺が、寺院の開山と位置付けられた点には、観音の化現という伝承も含めて、早い段階から神と仏の融合がこの地域で進んでいたことが窺われる。

 時代は下って朱鳥元年(686)、天武天皇崩御の直後に勃発した大津皇子の謀反という異変に際し、処罰された徒党の一人に、新羅僧行心(幸甚、こうじん)なる者がいた。この行心こそが、天文・卜筮を解し、大津皇子に謀反を勧めた張本で、極刑に処せられるべきところ、持統天皇の詔により飛騨の寺院に配されるに留まったという。ちなみに、その子息で、飛騨配流に同行したと思しき僧・隆観は、大宝2年(702)朝廷に献上することになった神馬を捕獲した功により免罪となり入京が許され、芸術と算術・暦学の知識に長けていたことから翌年還俗させられ、金財(こん・たから)と名乗った。

 飛騨に配流という点では、道鏡配下の興福寺僧・基真も同じ処分を受けている。天平神護2年(766)、隅寺の毘沙門像に舎利を出現させて道鏡の法王就任を導き、自身も法参議大律師となりながら、二年後の神護景雲2年(768)にその師である円興を侮辱したとして飛騨国に斥けられる。このように、問題のある僧の外配先として飛騨の地が選ばれたのは、この地域の宗教的環境によるのではないだろうか。

 越中より神通川(宮川・高原川)を遡った飛騨は、北陸道の国々と密接な関係をもち、その文化的影響を蒙ってきた。日本海を隔てて大陸・朝鮮半島に接する北陸道の日本海沿岸地域は、その文化をいち早く受け入れる環境にあったことから、信仰の面でも、畿内に先駆けて仏教など外来の信仰が根付いた痕跡をもつ。その影響で、修行に適した山間部という地理的条件により、飛騨に宗教文化の繁栄が見られ、宿儺の伝承にもそれが反映されたと思うのである。

文学部

本郷 真紹教授

専門分野:日本古代史