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三都ゆかりの地域の風土記

 
Vol.12

嵯峨天皇・嘉智子皇后と伊予国神野郡

 8世紀初頭、大宝律令が施行されたころ、四国・伊予国の東部、現在の愛媛県新居浜市及び西条市に該当する地に、6郷からなる神野郡という郡があった。その郡名は、天照大神の荒魂である伊曽乃神を祭る伊曽乃神社(現・西条市中野)が所在するなど、神のいます地とされたことによる。

 この地の出身と目される神野氏の女性を乳母の一人としたことから、延暦5年(786)に誕生した桓武天皇の皇子、すなわちのちの嵯峨天皇が諱を神野(賀美能)親王とされ、同じく乳母の大秦公浜刀自女(うづまさのきみのはまとじめ)が同10年に賀美能宿祢の姓を賜るなど、神野の地名と嵯峨天皇との間には深い縁があった。そのため、大同4年(809)に嵯峨天皇が即位すると、その諱を憚って神野郡は新居(にいい)郡と改められた。

 この神野郡(新居郡)の南西部に、四国を代表する霊山・石鎚山(標高1982m)が聳える。伝承では、7世紀中葉に、修験道の祖である役小角が天河寺(てんがじ)という寺院を開いたという。8世紀中葉の天平年間、この地で修行する寂仙という禅師がいて、僧俗の尊崇を集め、寂仙菩薩と呼ばれていた。神野郡の一宮神社(いっくじんじゃ、現・新居浜市)の宮司の子であった寂仙は上仙とも記され、石鎚山遙拝所の横峰寺(よこみねじ)を開いた石仙(灼然、しゃくぜん)の門弟であったが、石鎚蔵王大権現と称え、師・石仙が石鎚山の麓に建てた常住舎を整備して前神寺(まえがみじ)を創建するなど、石鎚山を行場として発展させた。

 『日本霊異記』によれば、石鎚山の山頂に止住した寂仙が天平宝字2年(758)臨終の際に弟子に託した文書に、「28年後に国王の子として生まれ、神野と名付けられる。それはこの寂仙の生まれ変わりである。」と記したという。果たして、延暦5年に、寂仙の遺言どおり神野親王が誕生することになる。

 この嵯峨天皇の皇后となった橘嘉智子についても、同様の伝承が見られる。神野郡の橘里に橘嫗(たちばなのおうな)という一人で暮らす老女がおり、家産を傾けて寂仙に供養した。寂仙の逝去に際し、橘嫗は、「永らく寂仙の檀越であった我が身は、来世においても寂仙と同じ所に生まれ、親しく過ごしたい。」と涙ながらに語り、程なく死去したという。まさに、この橘嫗の生まれ変わりが橘嘉智子で、嵯峨天皇の夫人になったと、彼女の崩伝に記されている。

 橘奈良麻呂の子・清友の娘として生まれた嘉智子は、手が膝より長く、髪が地に着く様な容姿の女性で、神野親王の夫人となり、夫帝の即位後、仏の瓔珞(ようらく、胸の飾り)を身に付ける夢を見て、皇后とされたという。熱心な仏教信仰者で、夫帝と住まいした嵯峨院の近隣に檀林寺を創建し、檀林皇后とも呼ばれた。多くの宝幡や繍文袈裟を造り、僧・恵萼を唐に遣わせて高僧や仏教の聖地である五台山に施すなどしたが、このような仏教信仰の姿勢が、前世の橘嫗の所業と関連付けて語り継がれる。

 嵯峨天皇についても、高僧が生まれ変わった聖君で、死刑とすべき罪を減じ、流罪として活かすなどしたと讃えられるが、その一方で、天下が干ばつや疫病、飢饉などで苦しんでいるときに、鷹や犬を飼って鳥猪鹿を獲っていたとして批判する向きもあったという。これに対し、『日本霊異記』の著者である景戒自身が、日本国内の物はすべて天皇の物であり、批判するには当たらないと、多少無理を感じる理由で嵯峨天皇を弁護しているのは興味深い。

文学部

本郷 真紹教授

専門分野:日本古代史