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山城の風土記

Vol.1

会報2019年 春号掲載
【第一シーズン】古社にまつわる山城・京都の往昔
序章

 京都はいくつもの顔を持つ不思議なまちである。

 延暦十三年(794)、この地に都を置いた桓武天皇は、平安京と命名した。それまでの都の名称が地名に拠ったのに対し、新都と新たな時代への思いがその名に込められたのである。同時に、都の位置する国名の用字も、かつて都が置かれた大和の地から見て山の背後にあることを意味する山背国から、堅固なイメージを持つ山城国へと改められた。それ以来、「千年の都」と言われるように、天皇や皇室の本拠たる都として今日に至っている。明治維新期に日本の首都としての機能は東京に移ったが、正式に東京遷都の詔が出されておらず、「今日でも正式の都は京都」と確信している京都人も少なくない。確かに、大正・昭和天皇の即位の儀礼は京都で行われ、今上天皇即位の際も話題になったが、結局初めて東京で行われた。そして、間もなく迎える新天皇の即位の儀礼も、やはり東京で行われる。

 悠久の歴史を誇る京都。しかしながら、今日京都の中心部で、平安時代の名残を目にする事はほとんど不可能である。「醍醐寺や平等院といった古刹に、平安時代の建造物が遺っているではないか」と指摘する向きもあるかも知れないが、これらの寺院は平安京の外域に位置している。もともと、平安遷都の際に、東寺・西寺のような一部の例外を除き、新たな寺院の建立は認められなかった。その後も、天皇・皇族や貴族の発願した寺院は、平安京の外域に建立された。京域内に相次いで寺院が建立され、今日の如き多くの仏閣が建ち並ぶ京都が出現するのは、中世以降の事であった。

 遷都以来1225年の間にさまざまな出来事があり、その都度京都は顔を変えてきた。特に、京都に大きな被害をもたらし、様相を変貌させたのが、15世紀後半に生じた応仁・文明の乱である。建造物の多くが被害を受け、平安京の機能のみならず、そこに住まいする人々の生活も一変した。しかし、多くの伝統が失われる一方で、新たな文化が出現する。今日、日本の伝統文化として認識されているものの中には、この時代に創出され、或いは整備・発展したものが少なくない。畳敷き・床の間付の和室、能楽や狂言といった芸能、そして立花等々、全て、中世後期の産物である。

 京都の町自体も、戦国期を経て豊臣政権の時代に、秀吉により新たな町造りが進められた。一部残存する御土居(おどい)という土手や、鴨川に沿って寺院が並べられた寺町、そして、新たに小路を設けて整備された町並みなどは、その時の名残である。この新しい京都も、中心部は、幕末の動乱で大きな被害を受けた。元治元年(1864)に長州藩と会津・桑名等の藩が交戦した蛤御門(はまぐりごもん)の変(禁門の変)の際に、京中に戦火が拡がり、二万八千余戸が焼け出された。現在の京都御所の近辺から、烏丸六条・七条の東本願寺に至るまで、風に煽られて火の手が覆い尽くしたのである。京町家として親しまれる家屋も、中心部に位置するものの多くは、この変の後に建てられたものである。

 京都には、古き良き伝統を重んじながら、一方で新しい風潮に敏感に反応する、独自の風土があるという。今日に至るまでに幾多の変遷を経た経験が、そのような趨勢を生み出したものと言えよう。

 今なお、特異な雰囲気を醸し出す京都。海外からも、日本の顔として知られる京都。この京都を含め、山背(城)国の往昔には、今日の日本の原点とも言うべき、さまざまな要素が遺されている。今年度は、衣笠キャンパスの位置する山背(城)国の往昔を、見てゆくことにしたい。

背景の地図[出典:国土地理院所蔵 山城 河内・摂津]

文学部

本郷 真紹教授

専門分野:日本古代史