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山城の風土記

Vol.2

【第一シーズン】古社にまつわる山城・京都の往昔
上賀茂・下鴨両神社と祭神

 京都を代表する河川、と言えば、平安京の東西を流れる鴨川と桂川が思い浮かぶ。北高南低の傾斜のきつい京都盆地を流れる両河川であるが、東の鴨川は、当初の流路が人為的に変えられて、今日の位置となったという。

 鴨川という名称は、現在上賀茂神社と下鴨神社が鎮座する地域、古代・山背国愛宕郡の一帯を本拠としていた、賀茂氏という豪族に因んだもので、今日では、この河川が高野川と合流する出町柳の地点までを賀茂川、以南を鴨川と、文字を使い分けている。

 賀茂氏は、律令制成立以前より大和の朝廷と深い関係をもち、葛野主殿県主(かどののとのもりのあがたぬし)に任命され、地域の管理を委ねられるとともに、朝廷に出仕して、天皇の住まいの清掃、灯火、水や氷の管理等に携わっていた。この賀茂氏の氏神を祀ったのが上賀茂・下鴨の両神社で、上賀茂神社の正式名称を賀茂別雷(かもわけいかづち)神社といい賀茂別雷命を祀り、また、下鴨神社を賀茂御祖(かもみおや)神社といい、賀茂別雷命の祖父にあたる賀茂建角身(かもたけつぬみ)命と、母の玉依媛(たまよりひめ)命の二座を祀っている。

 『山背国風土記』には、両社の祭神にまつわる話が伝わっている。神武天皇東征の際に道案内をした八咫烏(やたがらす、三本足のカラス)が賀茂建角身命で、大和の葛城山から山背に入り、木津川沿いを進んで鴨川と桂川(葛野川)が合流する所に到り、さらに鴨川を遡り鎮座した。その娘・玉依媛命が近くの小川で流れてきた丹塗りの矢を拾って持ち帰り、床の辺に挿しておくと懐妊し、賀茂別雷命を出産した。やがて、成人した賀茂別雷命に祖父の賀茂建角身命が父に酒を飲ませよと命じると、賀茂別雷命は屋根に穴を開けて天に昇った。丹塗りの矢、即ち父神は、乙訓神社の火雷(ほのいかづち)神であったという。

 賀茂川は、白河上皇の天下三不如意の一つとされるように、しばしば氾濫して平安京の住民を苦しめたが、自然を左右し農耕にも密接に関わる神として、雷のイメージを付して賀茂の神が崇められたのであろう。

 天に昇った賀茂別雷命は、再び賀茂川近辺の地に降臨する。それが上賀茂神社の北西約二キロに位置する標高約三百メートルの神山(こうやま)で、その頂上には磐座(いわくら)や神の降臨した垂迹石などがあり、山そのものがご神体として崇められ、上賀茂神社の本殿と権殿(ともに国宝)の間から遙拝する形になっている。この神山の西南麓に展開するのが立命館大学柊野総合グラウンドで、硬式野球部や馬術部等が、神山を仰ぎ見ながら練習に励んでいる。

 上賀茂・下鴨両社は、七世紀後半の天武朝の頃に造営されたと伝わるが、今日葵祭として京都の三大祭りの一つに数えられる賀茂祭は、六世紀の欽明朝に初めて行われたといい、神事の一つである競べ馬については、文武二年(698)にこれを禁ずる命令の出された事が『続日本紀』に見え、歴史の古さを裏付けている。

 延暦三年(784)の長岡遷都、同十三年の平安遷都に際しても、産土神である賀茂大神に報告がなされ、さらに嵯峨天皇の弘仁元年(810)、賀茂斎院の制度が設けられて、伊勢の斎宮のように、内親王が斎王として遣わされた。

風そよぐ ならの小川の 夕暮れは みそぎぞ夏の しるしなりける (『新勅撰和歌集』)

 百人一首の一つとして著名なこの和歌は、寛喜元年(1229)に藤原家隆が上賀茂神社の夏の風景を詠んだもので、「なら(楢)の小川」は上賀茂神社の境内を流れる御手洗(みたらし)川、そこで行われる「みそぎ(禊)」を題材にしている。

背景の地図[出典:国土地理院所蔵 山城 河内・摂津]

文学部

本郷 真紹教授

専門分野:日本古代史