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山城の風土記

Vol.3

【第一シーズン】古社にまつわる山城・京都の往昔
松尾大社と秦氏

 京都盆地の西部を南流する桂川、「保津川下り」で知られるように、この河川は丹波・亀岡から保津川として京都盆地に流れ込み、嵐山の渡月橋の辺りで桂川と名称を変える。一方で、大堰川(おおいがわ、大井川)とも呼ばれるが、実は大堰川という呼び名こそが、古代京都盆地の開拓との関係を物語っている。

 名勝として知られる嵐山にかかる渡月橋、その橋上から上流を眺めると、川底に段差のあることがわかる。この段差が、古代に築かれた大堰、すなわち治水施設に関わるものと考えられ、京都の人はこの施設の存在する辺りを、殊更に大堰川と呼んできた。

 京都盆地は、北高南低の傾斜の強い地形をしている。それ故、北部の地域は水利の便に恵まれず、元来耕作には不向きな土地であった。嵯峨野・北野といった地名は、もと「野」即ち原野であったことを示している。ところが、5世紀頃この地に高い技術をもった集団が入植し、その技術で治水施設を整備して、土地の開拓を進めていく。秦の始皇帝の末裔とも称する秦氏である。秦氏は、応神天皇の時代に渡来した弓月君(ゆづきのきみ)の子孫と『日本書紀』は伝え、養蚕・製糸に従事する集団を形成した。同時に、農耕に関しても大いに力を発揮し、著しく生産性を向上させたと考えられ、京都盆地のみならず、近江や播磨など各地に、その痕跡を留めている。

 秦氏のルーツについては諸説見えるが、新羅の波旦(はたん)から渡来したという有力な見解がある。入植後、秦氏は嵯峨野の地域に、自らの古墳を築造した。同時に、その氏神として祀ったのが、今日嵐山に鎮座する松尾大社(まつのおたいしゃ)である。

 社殿の後方に聳える松尾山(標高223メートル)には、頂上部に古墳が所在するが、山頂近くの大杉谷上部に御神蹟の磐座(いわくら)があり、この磐座が信仰の対象となってきた。信仰の起源は秦氏の入植以前に遡り、渡来系の秦氏は、在地の伝統的信仰と融合させて、一族の氏神を奉祭したと考えられる。

 松尾大社の祭神は、大山咋(おおやまぐい)神と中津島姫命の二座で、前者は近江・坂本の日吉大社、後者は北九州・筑紫の宗像(むなかた)大社の祭神と一致する。日吉大社・宗像大社共に、渡来人の足跡を色濃く残す地域の神社である点、興味がひかれよう。

 ちなみに、中津島姫命は、戊辰の年に「松埼日尾(まつざきのひのお)の日埼岑(ひざきのみね)」に天降ったと伝えられ、松尾山の磐座がその地点とする見解も呈されている。

 松尾大社の社殿は、大宝元年(701)に勅命により秦忌寸都里(はたのいみきとり)が造営し、御神蹟から神霊を遷したと言われる。秦氏の子孫が代々その祭祀を掌り、平安時代には名神大社に列せられた。現存する本殿は、応永4年(1397)建造、天文11年(1542)に大修理されたもので、両流造・松尾造と呼ばれる建築様式で、重要文化財に指定されている。

 一方、松尾大社の境内・近隣に、一ノ井川・二ノ井川という桂川より引かれた水路が所在する。桂川の東側にも同じく水路があり、秦氏が築いた施設と考えられている。そして、東側水路の流路を辿ると、秦氏の本拠とされる太秦(うずまさ)の地に至る。この太秦は、地名の用字からしても秦氏と極めてゆかりの深い地域で、この地に秦氏の氏寺として広隆寺が建てられた。

 さらに、784年の長岡遷都と794年の平安遷都、桓武天皇により敢行された相次ぐ遷都には、この地に居住していた渡来系氏族の存在が強く影響したとされる。言うまでもなく、京都盆地の開拓と経営を推し進めた秦氏の力に負う部分も大きかったと考えられ、以後、この松尾大社は、前回取り上げた上賀茂・下鴨神社と共に、王城の鎮護として永く朝廷の尊崇を受けることになるのである。

背景の地図[出典:国土地理院所蔵 山城 河内・摂津]

文学部

本郷 真紹教授

専門分野:日本古代史