1. ホーム
  2.  > 
  3. 山城の風土記
  4.  > 
  5. Vol.5

山城の風土記

Vol.5

【第一シーズン】古社にまつわる山城・京都の往昔
石清水八幡宮

 京都市に隣接する八幡(やわた)市に、石清水八幡宮が鎮座する。平安京の南西、桂川・宇治川と木津川が合流して淀川となる地点に近いところに位置し、表鬼門に当たる北東の比叡山延暦寺に対し、裏鬼門に位置して都を護る存在と認識された。

 八幡神は、もともと九州・豊前の宇佐(現・大分県宇佐市)で祀られた神である。その由来には諸説あるが、地理的条件より朝鮮半島との交渉が進んでいたことで、半島由来の性格をもっていた。境内に弥勒寺という神宮寺が所在したように、早くから仏教と融合しており、聖武天皇により盧舎那大仏の造立が進められた天平期には、日本の神々を率いてこの事業に協力するという託宣を出し、天平勝宝元年(749)平城京に勧請され、大仏の近くに祀られた。

 それ以前の段階から、九州南部の大隅に住む隼人との間で争いが生じた際や、新羅との緊張が高まった際には、朝廷により八幡神に祈請がなされた。その関係もあり、宇佐八幡には半島遠征の伝承をもつ神功皇后が併せて祀られ、その子である応神天皇が八幡大神であると受け止められるようになる。皇室の祖神として崇められ、また、仏教的性格を色濃く有したことから、八幡大菩薩と呼ばれた。

 平安時代の初め、南都・大安寺の僧であった行教が、神託により現社地のある男山の山頂に八幡神を勧請することを奏請し、貞観2年(860)、時の清和天皇の勅許を仰いで宝殿の造営が始められる。この地にはもともと石清水寺という寺院が建っていたが、寺号を護国寺と改め、八幡宮の神宮寺とされた。以後朝廷の尊崇を受け、伊勢神宮と並ぶ皇室の宗廟として、多くの天皇・上皇の参詣を仰ぐと共に、荘園の寄進を受けた。

 平安中期の摂関政治の時代に、清和天皇の末裔である清和源氏の源頼信(みなもとのよりのぶ)が、天皇ゆかりの社として石清水八幡宮を崇敬し、八幡大菩薩を源氏の祖神とした。もとより、戦の守護神としての認識を強く受けたことから、八幡神に対する信仰は、頼信の子・頼義から孫の義家へと受け継がれる。特に、後三年の役を鎮定した事で有名な源義家は、石清水八幡宮で元服の儀式を行い、八幡太郎義家と称した。その曽孫に当たる源頼朝は、幕府を開いた鎌倉に鶴岡八幡宮を造営し、源氏の氏神として崇敬する。以後、源氏の流れを汲む室町幕府の歴代将軍や、織田信長・徳川家康といった武将も参宮するなど、武家の祖神として信仰を集めた。

 現在の本殿には、誉田別尊(ほんだわけのみこと・応神天皇)、比咩大神(ひめのおおみかみ・宗像三女神)、息長帯足比賣命(おきながたらしひめのみこと・神功皇后)の八幡三所大神が祀られている。本殿の建物は、寛永11年(1634)に三代将軍徳川家光が修造を加えたもので、八幡造(はちまんづくり)の内殿・外殿の間には、織田信長の寄進にかかる黄金の雨樋と呼ばれる金銅製の雨樋が残されている。この本殿を含む10棟の建物が、平成28年に国宝に指定された。

 境内には、エジソンがこの地の真竹を利用して白熱電球の改良に成功した事を記念して建てられた碑が所在し、エジソンの誕生日(2月11日)と命日(10月18日)に、祭典が催されている。

背景の地図[出典:国土地理院所蔵 山城 河内・摂津]

文学部

本郷 真紹教授

専門分野:日本古代史