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山城の風土記

Vol.7

【第二シーズン】古寺にまつわる山城・京都の往昔
仁和寺

 衣笠キャンパスの北門から、きぬかけの道と呼ばれる通りを西に歩むと、著名な古刹・仁和寺の門前に達する。仁和寺は平安時代を代表する勅願寺(天皇の発願で建立された寺院)であるが、日本史よりも、学校で習った古典に登場する寺院として記憶にある人も多いだろう。石清水八幡宮に参詣しようとしたこの寺の僧侶が、勘違いして男山の麓の末社を詣でて戻った話や、酔っ払って三本足の鼎(かなえ)を頭にかぶり、抜けなくなった僧侶の話などが、三大随筆の一つである吉田兼好の『徒然草』に登場する。

 この仁和寺を創建したのは、9世紀末に即位した宇多天皇である。その父親である光孝天皇が西山(にしやま)御願寺という寺院の建立を発願したが、崩御したため、子の宇多天皇が父の意志を継ぎ、仁和4年(888)に金堂が落慶した。宇多天皇といえば、時の権力者・藤原基経を関白に任命するに当たり、当初「阿衡(あこう)」という文言を勅書に用いたことで基経の反感を買い、一度出した勅書を改めるいう屈辱的な事件を経験したことで知られている。このこともあって、宇多天皇は基経薨去の後菅原道真を重用し、基経の後継である藤原時平らを牽制しようとしたとされる。

 宇多天皇は寛平九年(897)に子の醍醐天皇に譲位し、二年後には出家して東寺で受戒する。仁和寺に設けられた法皇の居所が御室(おむろ)と称されたことから、仁和寺とその地域もやがて御室と呼ばれるようになる。

 昌泰四年(901)、道真を大事にせよという宇多天皇の申し伝えにもかかわらず、醍醐天皇が左大臣・藤原時平の讒言を受け入れて右大臣・菅原道真を大宰府に左遷する昌泰の変が勃発する。この年、宇多法皇は東寺で伝法灌頂を受け、阿闍梨の地位についた。これは弟子に密教を相伝しうる地位で、しばらく天台宗等におされていた真言宗の立場が、この後復権するようになった。宇多法皇は、醍醐天皇の後見として影響力を有しており、政治のみならず宗教の面でも権限を確立しようとしたと言われるが、純粋に真言宗の祖師・空海を崇敬する念も強く、醍醐天皇による弘法大師号の賜与には宇多法皇の意向が強く作用したと見る説もある。

 仁和寺は、広大な寺地に堂宇が整備され、東寺や金剛峯寺と並ぶ真言宗の拠点寺院として勢力を有する存在となった。また、宇多法皇の崩御後も、皇室からの入寺が続き、法親王の宣下を受けて御室を継承した。平安末から鎌倉期にかけて、四円寺と総称される円融寺等の天皇や皇族の発願にかかる御願寺がこの地に相次いで建立され、中世にかけて仏教文化がこの地で華開くことになった。のち、15世紀後半の応仁の乱の被害を受け、堂塔の多くが消失したが、江戸時代になって復興が図られ、諸堂が再建・整備された。

 現在、寺内の霊宝館に安置されている阿弥陀三尊像は、宇多天皇による金堂落慶時の本尊と考えられ、いずれも檜の一木造りで国宝に指定されている。また、所蔵する『三十帖冊子』(国宝)は、空海が入唐し唐の長安で恵果より密教を受学した際、密教の経典や儀軌などを数名で写して持ち帰った書で、真言宗の根本とも言うべき極めて貴重な書物である。

 現在の金堂は、江戸時代の寛永年間に御所の紫宸殿を移建したもので、最古の紫宸殿として国宝の指定を、同じく寛永年間の御影堂や五重塔は重要文化財の指定を受けている。一方、仁和寺の境内に植えられている桜は御室桜と呼ばれ、最も遅咲きの桜として江戸時代より人びとに親しまれ、シーズンには多くの花見客を集めている。

背景の地図[出典:国土地理院所蔵 山城 河内・摂津]

文学部

本郷 真紹教授

専門分野:日本古代史