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山城の風土記

Vol.8

【第二シーズン】古寺にまつわる山城・京都の往昔
神護寺

 京都の西北部に位置する高雄は、古くから紅葉の名所として聞こえ、晩秋には多くの観光客を集めている。その高雄の中心部に位置するのが、古刹・神護寺である。神護寺は和気氏ゆかりの寺院で、また真言宗の開祖・空海も、かつてここを拠点に活動した。

 和気氏は備前国藤野郡(岡山県東部)の豪族で、中央に出仕した和気清麻呂とその姉・広虫が、古代最後の女帝となった称徳天皇に仕えた。広虫は出家して法均尼と称し、尼天皇である称徳に近侍した。天皇の師である法王道鏡を皇嗣にという宇佐・八幡神の託宣の真偽を確かめるために清麻呂が宇佐に遣わされ、その報告が結果として道鏡の即位を阻むこととなる。称徳天皇の逆鱗に触れたこの姉弟は、それぞれ備後・大隅に配流されるが、称徳天皇崩御と光仁天皇即位に伴い復権し、次の桓武天皇の代に及んで、清麻呂は重用された。延暦3年(784)の長岡遷都にも功があったが、10年後に清麻呂は新たな都の造営を桓武天皇に進言し、平安遷都を導くことになる。和気清麻呂は、まさに奈良末・平安初期の功臣として、後世に名を残した。

 神仏習合の先駆的な存在であった宇佐・八幡神の託宣に関わったことなどから、清麻呂は河内に神願寺という寺院を建立し、朝廷の公認を受けた寺格である定額寺(じようがくじ)に列したが、その所在地等については定かでない。

 一方、京都北部の愛宕権現(あたごごんげん)に関係する山林寺院の一つに、高雄山寺という山林寺院があった。権現の奉祭に和気清麻呂が関わったことから、清麻呂の墓がこの寺院の境内に設けられ、清麻呂の子息である和気弘世と真綱(まつな)がその護持を受け継いだ。延暦21年、最澄をこの寺院に招請して法華経の講会(こうえ)を催し、弘仁3年(812)には、本格的な密教を伝えた空海が、ここで密教の儀礼である金剛界と胎蔵界の両部灌頂(かんじよう)を行った。和気氏が参列し、最澄もまた、空海に弟子の礼をとり灌頂を受けた。この時灌頂を授けた僧名を記した空海筆の灌頂暦名(れきみよう)(国宝)が、現在も神護寺に伝わっている。

 天長元年(824)、和気真綱の奏請により、神願寺の定額寺としての寺格を高雄山寺に移し、高雄山寺は神護国祚真言寺(じんごこくそしんごんじ)(神護寺)と改称した。神護寺は鎮護国家の道場と位置付けられ、真言宗の拠点寺院の一つであったが、この後平安期に複数の火災に遭い、衰微する。その復興に尽力したのが、院政期から鎌倉初期にかけて活躍した、文覚(もんがく)である。

 文覚はもと上皇の警護に当たる北面の武士で、摂津源氏の一党に属したが、真言僧となり、神護寺の復興を後白河上皇に訴えて怒りを買い、伊豆に配流となる。ところが、そこで源頼朝と出会い、以後その信任を受け活躍する。頼朝や後白河上皇の庇護で神護寺を再興したばかりでなく、東寺・西寺や東大寺・四天王寺等の復興にも尽力した。

 金堂本尊の薬師如来像は、平安初期を代表する一木造で、もと神願寺の本尊と考えられ、宝塔院に安置された同時代の五大虚空蔵(こくうぞう)菩薩像(一木造)と共に、国宝に指定されている。また、平安初期の梵鐘(国宝)には、橘広相(ひろみ)・菅原是善(これよし、道真の父)という9世紀の文章道の学者が作し、当代の能筆家・藤原敏行が筆を執った序と銘が遺され、「三絶の鐘」と言われている。

 一方、同寺に伝わる両界曼荼羅(国宝)は、空海が唐より将来した原本をもとに平安初期に製作されたもので、高雄曼荼羅と呼ばれる。また、絹本着色の三幅の肖像画(ともに国宝)は、かつて源頼朝像・平重盛像・藤原光能(みつよし)像として教科書にも掲載されたが、そのモデルについては、近年それぞれ足利直義・足利尊氏・足利義詮であるという異論が呈され、論争の対象となっている。

背景の地図[出典:国土地理院所蔵 山城 河内・摂津]

文学部

本郷 真紹教授

専門分野:日本古代史