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山城の風土記

Vol.10

会報2019年 冬号掲載
【第三シーズン】平安京外の名所・旧跡
宇治

 朝ぼらけ 宇治の川霧  絶え絶えに あらはれわたる 瀬々の網代木(あじろぎ)
藤原定頼(『千載和歌集』)

 日本を代表する茶の産地として知られる宇治は、『源氏物語』の舞台となり、藤原頼通(よりみち)の建立にかかる宇治平等院鳳凰(ほうおう)堂が所在する景勝の地として、多くの観光客が訪れる。この宇治という地名は、応神天皇の子で、のちに仁徳天皇となる兄と皇位を譲り合い、ついには自殺してこの地に葬られた菟道稚郎子(うじのわきのいらつこ)に因むと言われる。

 ここは、琵琶湖から流れ出た瀬田川が名を変えた宇治川と、木津川(泉川)の両河川に接する地域で、平安京が営まれる以前より、交通の要衝として栄えた。

 もののふの 八十宇治川の 網代木に いさよふ波の 行くへ知らずも
(『万葉集』巻三)

 著名な万葉歌人である柿本人麻呂が近江から大和に上る際に詠んだ歌で、7世紀の時代から、竹や木で作った網代木を用いてこの地で漁撈が行われていたことが窺われる。

 大和を発した古北陸道がこの地を通り、宇治川を渡る宇治渡(うじのわたし)では、川の流れが急なため、多くの命が失われていた。これを救うため、大化2年(646)に元興寺の僧・道登が宇治橋を架けたと伝えるが、一方で、唐より帰朝した道照が造ったとも言われる。軍事的な意味でもこの橋は重視され、壬申の乱(672)や、平安初期に生じた平城上皇の変(810)、承和の変(842)といった戦乱・異変に際しても、この橋の警固が試みられている。

 近江の琵琶湖と大和・山城の宮都を結ぶ瀬田川(宇治川)の水系は、藤原宮の造営に必要とされた木材など、物資運搬経路として重要な役割を果たした。宇治に設けられた中継地点としての港津は宇治津と称され、宇治司所という管理施設も置かれていた。

 平安時代になると、宇治川の近辺に貴族の別業(別荘)が数多く設けられ、宇治院と称された。その一つが、光源氏のモデルとも言われる源融(みなもとのとおる)が営んだ別業で、代を経て藤原道長の手に渡り、さらにその子・頼通へと伝えられ、宇治殿と呼ばれた。頼通は永承7年(1052)この別業を寺院に改修し、平等院と名付ける。

 永承7年は、仏法が廃れる末法の時代に入る年と考えられた。折しも、東北では前九年の役が生じており、人々に末法の到来を実感させたことが、宇治平等院創建の契機とされる。ただ、当初の平等院は密教寺院であり、大日如来を本尊とする本堂や不動堂・多宝塔などが所在したが、14世紀南北朝期の動乱で焼失し、阿弥陀堂のみが奇跡的に残存して、鳳凰堂と呼ばれるようになった。

 宇治川の水を引き込んだ池に浮かぶ平等院鳳凰堂は、阿弥陀浄土の景観を髣髴させるもので、その内部には仏師・定朝の作にかかる阿弥陀如来坐像を安置し、周囲に雲中供養菩薩像を配し、また多くの壁画が描かれた。父・道長は無量寿院(法成寺(ほうじょうじ))を建立し、のちに御堂関白(みどうかんぱく)と称されたが、この寺院は既に失われ、頼通の平等院鳳凰堂が、当時の貴族による浄土信仰の様子を今日に伝えている。 

背景の地図[出典:国土地理院所蔵 山城 河内・摂津]

文学部

本郷 真紹教授

専門分野:日本古代史