このシリーズでは、在来の神々に対する信仰(神祇信仰)が存在した日本の古代社会に、どのような過程で外来の宗教である仏教が受け容れられ、それぞれの段階における特色が形成されたのか、歴史的な意義について考えます。
『日本書紀』の記載を見ると、推古朝に行われた遣隋使派遣や冠位十二階制定などの著名な政策に触れた部分で、意外なことに厩戸皇子(聖徳太子)の名が出てこないことに気付く。皇太子として朝廷の政務全般に関わっていたため個々に名を記す必要がなかったとも考えられるが、憲法十七条については逆に、推古12年(604)4月3日に皇太子がみずからはじめて憲法十七条を作したとされている。
この憲法十七条の第二条が仏教の信仰を訴えた部分で、「篤く三宝を敬え、三宝とは仏法僧なり」という有名な一節で始まる。第一条で和を大切にすること、第三条で天皇の命令に従うこと、第四条で礼を根本とすることというように、朝廷で政務に携わる官人が心得ておくべき内容に触れる中で、第二条の仏教信仰の奨励がどのような意味をもつものか、改めて考える必要がある。
かつてこの第二条に注目し、深く仏教を信仰していた厩戸皇子が、官人に対しても信仰を勧めて仏教の興隆を図り、やがて日本が仏教国となる礎を築いたとする解釈が見られた。しかし、憲法十七条の各条に底流する新たな体制作りの基本理念という点を踏まえれば、仏教信仰を推奨するというのは、とりわけそれまでの日本の社会が伝統的な天神地祇に対する祭祀を根本とし、そこにこそ天皇が君臨する意義が存したことに鑑みて、皇嗣が予定されている人物の意向としては、違和感を禁じ得ないことになる。すべて個人の信仰心に帰結することには、少なからず疑念が抱かれよう。
官人の心得であれば、当然それが政務の執行に不可欠のものでなければならない。そこで改めて第二条の文章を見れば、仏教は四生の終帰であり、万国の極宗であると謳われる。すなわち、あらゆる生き物の帰結するところであり、あらゆる地域において極まれるものであると説いている。この意味こそ重要で、生まれや育ちの違いを乗り越えて尊ぶべきものと訴えられているのである。
第一条の和の尊重に触れた文章では、「忤(さか)ふること無きを宗(むね)とせよ」と、対立の抑止が強調される。それまでの朝廷では、天皇の代が改まる際に骨肉の争いが往々にして生じ、また豪族間の抗争も繰り返された。このような状況を克服し朝廷が一体とならなければ、激動する東アジアの情勢に対処することは不可能となる。喫緊の課題というべき対立構造の克服を図る手段として、万人に共通した崇敬の対象を設定すること、それが仏教信仰奨励の意図するところであったのではないだろうか。
伝統的な天神地祇の信仰では、それぞれの血族や本拠とする地域によって主たる祭神が異なり、ともすればそれぞれの神に対する信仰が抗争の際の紐帯となっていた。それではいつまでたっても争いを止めるは出来ない。これに対して仏教は、多彩な仏・菩薩や諸天・諸王を祭る信仰ではあっても、特定の血族や地域の住人が特定の信仰対象を設定するという形態をとらず、信仰する人の条件を問わない。この普遍性に注目し、敢えて仏教信仰の共有を図ったと考えられるのである。
仏教の政治的利用といえば語弊があるかも知れないが、宗教・信仰にはそのような側面も存したことを心得ておく必要があろう。
文学部
本郷 真紹特命教授
専門分野:日本古代史
主たる研究課題は、7~9世紀の日本古代律令国家の宗教政策、地域における宗教交渉過程(仏教と神祇信仰の関係)、古代宗教制度の史的意義、古代王権の宗教的性格 ほか。