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近江の風土記

Vol.9

【第二シーズン】湖国に遺る名所・旧跡
湖国に遺る古社

 10世紀初頭、醍醐天皇の命により編纂された『延喜式』の「神名帳」(じんみょうちょう)には、官社として扱われた神社の名称と鎮座する祭神の数が記載されている。ここに見える神社は、紛れもなくそれ以前より実在した神社であり、歴史の古さを示す指標と受け止めることができるが、国別に見れば、最も多いのが永らく朝廷の所在した大和国で286座・216社を数え、伊勢神宮・出雲大社の所在する伊勢・出雲と続き、第4番目に多くの数を伝えるのが、155座・142社の近江国ということになる。

 「神名帳」記載の神社には、名神大社(みょうじんたいしゃ)という社格の付記されたものが見える。名神大社は、国家に異変が生じた際に臨時の祭祀が執り行われる名神祭の対象となり、神に対して奉呈される正一位・従一位といった神階をもつ神祇を奉祭する神社であった。天平宝字8年(764)に生じた藤原仲麻呂の乱で、仲麻呂とその一党が近江国高島郡の三尾で討ち取られ乱が終結した後、朝廷より近江国の名神社に対して遣使奉幣されている。

 近江国の名神大社は、13座10社を数える。このうち、最も高い神階を有したのは滋賀郡の日吉神社で、元慶4年(880)大比叡神に正一位、小比叡神に従四位上が奉呈される。これまで幾度か触れたように、日吉神社は比叡山の玄関口である坂本に所在し、山の地主神として延暦寺により護持され神仏習合の形を示した。明治維新期の神仏分離で独立した神社とされたが、今なお4月の山王祭(さんのうさい)に於いては、延暦寺の天台座主と園城寺の長吏に率いられた天台宗の僧侶により、神前の読経が修されている。

 現在の日吉大社には、大比叡神即ち比叡山の守護神である大己貴(おおなむち)神を祭る西本宮と、神社のすぐ後ろにある小比叡と呼ばれた牛尾山(八王子山)ゆかりの大山咋(おおやまくい)神を祭る東本宮があり、その本殿は共に安土桃山時代の建築で、国宝に指定されている。元来、この地の神として崇められていたのは牛尾山に降臨する小比叡(大山咋)神であったが、近江遷都に伴い天智天皇7年(668)に大和・三輪山の大神(おおみわ)神社の祭神が日吉神社で祭られるようになったのが大比叡神とされている。本社は山王権現とも呼ばれ、天台宗の発展に伴い全国各地に日吉社・山王社が設けられた。

 日吉神社が近江国二宮とされたのに対し、日吉神社より神階は低いものの、一宮として尊崇を受けた神社が、日本武尊(やまとたけるのみこと)を祭神とする栗太郡の建部(たけべ)神社である。もと神崎郡に所在し、7世紀後半に栗太郡に移されたという伝も見える。建部は大和朝廷が設定した軍事集団で、『日本書紀』には日本武尊のために「武部」を定めたとされ、或いは軍神としての性格から、交通の要衝に位置する近江国府の近隣の地に移されたとも考えられる。その西方すぐの地点に、瀬田川に掛かる著名な唐橋(からはし)がある。

 日吉神社・建部神社と共に近江を代表する名神大社が、野洲郡の御上(みかみ)神社で、野洲川の東岸に聳える標高432メートルの三上山の西麓に位置する。琵琶湖の対岸からも一目で識別される美しい三角錐の三上山は近江富士と称され、神の坐す山として信仰の対象となった。 頂上部は雄山と雌山に分かれ、磐座(いわくら)が所在する。この山については、奈良時代にここで修行していた僧が神と交信した話が、日本最古の説話集である『日本霊異記』に見え、また、平安時代にこの山に住むムカデを退治した俵藤太の説話が伝わる。御上神社の祭神は、養老年間(717~23)に三上山に降臨した天之御影(あめのみかげ)神で、鎌倉初期に建立された本殿は国宝、平安末期と推定される拝殿や室町期の楼門は国の重要文化財に指定されている。

 この三社をはじめ、数多くの近江の古社もまた、古くから栄えた近江の宗教文化を象徴する存在として注目される。

背景の地図[出典:国土地理院所蔵 伊能大図(米国)彩色図]

文学部

本郷 真紹教授

専門分野:日本古代史