1. ホーム
  2.  > 
  3. 近江の風土記
  4.  > 
  5. Vol.10

近江の風土記

Vol.10

会報2018年 冬号掲載
【第三シーズン】湖国に遺る名所・旧跡
古代・田上(たなかみ)の文化と産業

 BKCの南に、新名神高速道路の草津田上(たなかみ)インターチェンジがある。この田上という地名は、地域一帯の名称であると同時に、田上山という山岳地を示すものでもある。田上山は、標高599.7メートルの太神(たなかみ)山を中心とする山地で、古代より近江の文化と産業に深く関わってきた。

 そもそも、「太神」という用字より推し量られるように、頂上に磐座の巨石が所在する太神山は、「太陽の神」或いは「田の神」の山として崇められたが、仏教の普及に伴い、僧侶の修行の場としても栄えることになった。現在も頂上付近に不動寺という寺院が所在する。この寺院は太神山成就院と号し、不動明王を本尊とする。寺伝では、この山から三井寺(園城寺)に金色の光がさしたことから、円珍が入山して老翁に出会い、その勧めで霊木より不動明王像を作り、貞観元年(859)頃伽藍を創建し安置したという。老翁は来住した天照大神で、空中より不動明王も示現したとされる。以後、三井寺系の天台修験の道場となり、現在も毎年9月22日より28日まで行われる大会式で護摩が焚かれ、勤仕する山伏と共に多くの参詣者で賑わっている。
 巨石に接して設けられた不動寺の本堂は、中世後期の舞台造りの建造物で、国の重要文化財に指定されている。

  文化的に古い歴史を有する田上の地域であるが、そればかりではない。産業の面でも、古代以来この地域は重要な展開を見せてきた。
 まずは木材。琵琶湖を取り囲む近江の山地は、運搬の至便さという点からも、大和や山背に営まれた藤原京・平城京・平安京など、宮都の建造物資材の供給地、杣(そま)として重視された。琵琶湖から瀬田川・宇治川を経由して山背(やましろ)へ、さらに木津川(泉川)を上って木津から大和盆地へと運ばれたのである。7世紀末の藤原宮造営に携わった役民の詠んだ万葉歌に、次のような一節が見える

 いはばしる 近江の国の 衣手(ころもで)の 田上山の 真木さく 檜のつまでを もののふの  八十宇治川に 玉藻なす 浮かべ流せれ そを取ると 騒ぐ御民も 家忘れ 身もたな 知らず

 田上には、山作所(やまつくりどころ)と称された伐採・製材の拠点が設けられ、東大寺や石山寺といった寺院の建築の際にも、資材調達の現地事務所として機能していた。無論、近隣には、これを生業とする技術者が多く居住していたことが想定される。なお、この地域の山には、現在でも遠望すると山肌が露出している所が多く見受けられるが、乱伐がその原因の一つとも言われている。

 一方、田上の地域を流れる田上川(現・大戸(だいど)川)が瀬田川に合流する地点に所在した谷上(たなかみ)浜には、田上網代(あじろ)と呼ばれた漁場があり、平安時代には、収穫した氷魚(ひうお)(鮎の稚魚)を朝廷に献上していた。その歴史は極めて古く、『日本書紀』には、5世紀末の雄略朝に「谷上浜」に「川瀬舎人(かわせのとねり)」を置いたという記事があり、網代の管理者と見る向きが強い。

 初回に取り上げた、BKCの木瓜原(ぼけわら)遺跡などに見られる鉱業・金属加工業と共に、この地域のさまざまな産業が、朝廷を支えていたのである。

背景の地図[出典:国土地理院所蔵 伊能大図(米国)彩色図]

文学部

本郷 真紹教授

専門分野:日本古代史