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摂津の風土記

Vol.1

会報2020年 春号掲載
【新シリーズ】序章
商都大阪の原点

 大阪いばらきキャンパス(OIC)のある大阪府茨木市は、古代に置かれた摂津国(せっつのくに)の島下(しましも)郡に位置している。摂津国は津国(つのくに)とも呼ばれ、津(港湾)に接する地で、津とは難波(なにわ)津(現・大阪湾)を意味していた。現在の地勢では、茨木と大阪湾はそれなりの距離を隔てているが、古代においては、大阪平野で南北に延びる上町台地の西側、すなわち現在の大阪市の中心部は、海が入り込み多くの島が点在する地域で、その様子は「難波の八十島(やそじま)」と呼ばれたのである。

 大和盆地に多くの天皇の宮が営まれた時代、摂津・難波の地は、流通・交易の拠点として、大和朝廷の外港的機能を果たす地であった。西国の産物は瀬戸内の海路を通って難波津に至り、大和川の水運、或いは陸路で大和へと運ばれたのである。同時に、外国から渡来した人々が大和を訪れる際もこのルートを辿り、難波津に上陸したのち、大和との国境に聳える二上山というフタコブラクダの背のような独特の形を呈する山を目印に、大和へと向かったのである。

 ちなみに、摂津と大和の間には、河内国が所在した。河内の地名は、大和川水系の河川に囲まれた地域を意味している。そのルートに当たるところに多くの渡来人が住み着き、彼らと関わりの深い地名が今日でも多数残存している。

 西方から到来した人物と言えば、初代の神武天皇もまた、日向を出立したのち、瀬戸内を通って難波碕(なにわさき)に辿り着いた。その際、浪が速かったのでこの地を「浪速国(なみはやのくに)」と名付け、やがて「ナミハヤ」が訛(なま)って「ナニワ」となったという。

 流通と外交の重要拠点であったことから、摂津の地には天皇の宮が多く設けられた。5世紀頃の天皇とされる応神天皇は難波大隅宮(なにわおおすみのみや)に行幸し、その子・仁徳天皇は高津宮(たかつのみや)で政務をとり、難波の堀江と呼ばれる運河を築いた。6世紀の欽明天皇もまた、大連(おおむらじ)・大伴金村(おおとものかなむら)や物部尾輿(おこし)らを率いて祝津宮(はふりつのみや)に行幸している。

 7世紀になると、大化元年(645)の乙巳(いつし)の変ののち即位した孝徳天皇がこの地に難波長柄豊碕宮(なにわながらのとよさきのみや)を営み、都を大和から摂津に遷した。大化の改新と呼ばれる新たな政治体制を志向するに当たり、大和でなくこの摂津の地を拠点としたのである。その所在地は長らく確認されていなかったが、現・大阪城の南方、法円坂の辺りに、その痕跡と目される遺跡が検出され、位置だけでなく宮の構造まで知られるようになった。こののち、再び大和に都が遷っても、延暦3年(784)の長岡京遷都に至るまで、難波宮は副都として存続することになる。

 歴代天皇の宮が置かれ、時には政治の拠点としての機能まで有した摂津の地、水陸交通の結節点であるこの地は、いみじくも古代の宮に程近いところに大坂城の創建を導き、その城下の発展は、近世において「天下の台所」たる商都の反映を導き、同時に、浪速の文化を出現せしめることになるのである。

文学部

本郷 真紹教授

専門分野:日本古代史