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摂津の風土記

Vol.3

摂津ゆかりの人々
中臣(藤原)鎌足

 茨木市の北東部、高槻市と接する安威(あい)の地に、標高281メートルの阿武山という山が所在する。昭和9年(1934)、この阿武山に設置された京都帝国大学地震観測所のトンネル掘削工事の途上、一基の古墳が発見された。標高約215メートルの尾根上に、直径約82メートルの円形の浅い溝で墓域が囲われ、中心部より切石と塼(せん、煉瓦)で構築された墓室が出土した。

 そこには、麻布を漆で何層にも重ねて製作された長さ2メートルの夾紵棺(きょうちょかん)が納められ、その中には、毛髪・装身具を伴う、ミイラ化した60歳前後の男性の遺骨が残っていた。そもそも、夾紵棺自体が、7世紀の終末期古墳に見られる、高貴な人物の埋葬に用いられた棺で、さらにガラス玉で編まれた玉枕や、遺骨頭部に金糸等が認められたことから、貴人の墓の発見として話題に上り、皇室関係者の可能性も高いとして、遺骨や遺物は再び墓に納めて埋め戻された。

 それから半世紀近くたった昭和57年(1982)、同地震観測所から、当時撮影された遺骨等のX線写真が見つかった。遺骨には、胸椎や腰椎骨折の重傷を負った痕跡が有り、また金糸も、冠の刺繍に用いられた糸であることなどが判明した。これらの遺骨・遺物の特徴から、日本古代史上最も有名な人物の一人である中臣(藤原)鎌足の墓ではないかという意見が出され、注目を集めた。

 推古22年(614)の生まれとされる中臣鎌足が『日本書紀』に最初に登場するのは、皇極3年(644)正月に神祇伯に任命されようとしたが、鎌足は固辞し、病と称して三嶋の邸に退いたという記事である。摂津の三島に鎌足の別邸が存在したと見られ、鎌足がこの地に縁をもっていたことが認められる。

 その中臣鎌足が中大兄皇子らと謀って蘇我入鹿を暗殺し、蘇我本宗家を滅ぼした乙巳の変(645)の後、即位した孝徳天皇の下で、中臣鎌足は内臣という地位に付けられた。以後、斉明朝・天智朝を通じて、中大兄皇子(のち天智天皇)の政務を補佐する役割を帯びることになる。天智8年(669)10月、鎌足は大津に所在した自邸で薨去する。その直前に、天智天皇は長年の功績に対し、大織冠という特別の冠と大臣の位、さらに藤原の姓を授けたと伝える。

 阿武山古墳から発見された金糸は、この大織冠に使われたものではないかと考えられ、また、薨去の五ヶ月前に鎌足が天皇等と山科野で狩りを行った際、落馬して傷を負ったという言い伝えなどから、阿武山古墳の遺骨は鎌足のものでは、と言われたのである。ちなみに、鎌足の墓所として信仰を集めたのは、大和の多武峰(とうのみね、奈良県桜井市)で、平安時代に成立した『多武峰略記』によれば、鎌足の長子である僧定恵(じょうえ)が、鎌足の葬られた摂津国島下郡阿威から大和の多武峰に改葬したとされている。

 茨木市安威には、元・鎌足の墓という古墳のある大織冠神社や、定恵開基の善法寺の流れをくむ大念寺があり、史料の示す経緯を裏付けるようであるが、ではなぜ鎌足の遺骸がここに残されているのか、また、なぜ鎌足の曾孫にあたる藤原仲麻呂が撰述した『藤氏家伝上(鎌足伝)』に、鎌足は山階(山科)で火葬されたとされているのか、など謎が多く、興味が尽きない。

文学部

本郷 真紹教授

専門分野:日本古代史