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三都近隣諸国の風土記

Vol.9

淡路

 『古事記』『日本書紀』には、天浮橋からオノゴロ島に降りた伊弉諾尊・伊弉冉尊の二神が、豊秋津洲(とよあきづしま)に先だって儲けたのが淡路洲、すなわち淡路島であるという所伝が見える。伊弉冉尊は、最後に火神・カグツチを産み落として死去するが、その伊弉冉尊に逢うために禁忌を犯して黄泉国を訪れた伊弉諾尊が、戻る過程で多くの神を儲けたのち、淡路の多賀に幽宮(かくりのみや)を構えて長く居することになったという。これに因むのが、淡路国一宮とされた伊弉諾神宮(現・兵庫県淡路市多賀)で、伊弉諾・伊弉冉の両尊を祭神としている。

 紀伊、淡路から阿波・讃岐・伊予・土佐の四国へと通じる道は南海道と称され、律令制下の地方行政区画である七道の一つに数えられた。四方を海に囲まれた淡路は、海産物を中心とする贄(にえ)を宮廷に貢上する御食国(みけつくに)とされたが、それを差配したのが安曇(あずみ)氏で、淡路の海人を束ね、内膳司として宮廷の食事を掌った。大和の朝廷にとっては重要な食材の供給源で、繁く往来のあった淡路は、政争に巻き込まれるなどして宮廷より排斥された高貴な身分の人々の移配される場所となった。

 天平宝字2年(757)、天武天皇の孫に当たる大炊王(おおいおう)が、女帝・孝謙天皇より皇位を継承する。淳仁天皇である。その即位は、時の権力者藤原仲麻呂の意向によるもので、政務は仲麻呂により取り仕切られていた。やがて孝謙上皇と淳仁天皇・藤原仲麻呂との間に対立が生じ、同8年、ついに藤原仲麻呂(恵美押勝)の乱が勃発する。仲麻呂は敗死し、淳仁天皇は皇位を剥奪されて淡路に送られ、淡路廃帝と呼ばれた。孝謙上皇が重祚して称徳天皇となったが、翌天平神護元年(765)、先帝を慕い淡路に赴く官人も多くいたことから、監視の強化が命じられる。さらに、この年称徳天皇が紀伊の各地を行幸すると、憤った先帝は逃亡を図り、捉えられて憤死する。

 称徳天皇と異母姉妹であった不破内親王は、天武天皇の孫で臣籍に降下した塩焼王(氷上塩焼)の妃となるが、塩焼は藤原仲麻呂の乱の際に仲麻呂と行動を共にして誅殺される。のちに、内親王所生の氷上川継が、桓武天皇の即位を不服として延暦元年(782)謀反を企てたが、それが露見したことで内親王も連座して処罰され、川継の姉妹と共に淡路に移配となった。

 その桓武天皇の即位に際し、皇太子に擁立されたのが、天皇の同母弟である早良(さわら)親王である。親王は出家して僧侶となり、東大寺の運営に携わっていたが、父である光仁天皇の意向を受け、兄帝の即位と共に還俗して立太子した。ところが、長岡遷都翌年の延暦4年に、造営を主導した藤原種継が遷都反対派により暗殺されると、その首謀者として捉えられ、京内の乙訓寺に幽閉された。親王は無実を主張したが聞き入れられず、淡路に送られることになる。親王は飲食を絶ち、護送の途中淀川にかかる高瀬橋のところで最期を迎えた。

 親王の遺体はそのまま淡路に送られ葬られたが、この事件の3年後、桓武天皇の妃である藤原旅子が薨去する。翌年には天皇の母・高野新笠(たかののにいがさ)、さらに延暦9年には皇后・藤原乙牟漏(おとむろ)、妃である坂上又子(さかのうえのまたこ)と、天皇の近親が相次いで世を去り、早良親王に替わって立太子した安殿(あて)親王が病となった。この年、天平期以来の天然痘が流行し、多くの死者が出たが、淡路の早良親王の墓に墓守が置かれ、郡司に墓の管理を命じている。

 安殿親王の病は幾年にも及び、早良親王の霊障と卜定されると、使者が淡路に派遣されて親王への謝罪が行われ、延暦19年には、親王に天皇号が贈られて崇道天皇と称し、その墓は山陵として扱われた。それでも霊障は収まらず、同24年、淡路に寺院が建立され、さらに陵墓を淡路から大和に移すこととされた。その甲斐無く、翌年桓武天皇は崩御する。

 奈良市東南部の八島町に崇道天皇の陵墓・八島陵が所在するが、淡路市仁井の天王の森が、もとの早良親王の墓と伝えられる。

文学部

本郷 真紹教授

専門分野:日本古代史