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三都近隣諸国の風土記

Vol.12

伊勢

 伊勢神宮の内宮、皇大神宮には皇室の祖先神である天照大神が、外宮すなわち豊受大神宮には豊受大神が祭られ、多くの人が参詣する。この神宮が成立した経緯について、次のように伝えられる。

 天孫・瓊瓊杵命(ににぎのみこと)が降臨する際、天照大神は八咫鏡(やたのかがみ)に自身の霊を込めて授けた。代々の天皇はこの鏡を身近なところに置いていたが、崇神天皇の時代、疫病で多くの死者が出た際に外に持ち出され、垂仁天皇の皇女である倭姫命(やまとひめのみこと)が鎮座の場を求めて巡り歩き、伊勢に至って天照大神の託宣を得、この地に奉祭した。一方、外宮は、雄略天皇の時代に、やはり天照大神の託宣により、その食事を掌る神として、丹波(のち丹後)の真奈井原から豊受大神が遷座したという。

 伊勢神宮の成立の時期については諸説あり、また内宮は、当初の多気郡より度会郡の地に遷されたとも言われるが、7世紀後半の天武・持統朝に、祭祀の制度や施設が整備されたと考えられる。それに伴い、神宮の近隣に住して奉仕する役割を帯びた斎宮が設けられ、天皇の皇女が派遣された。その中には、古代史上よく知られた皇女が含まれている。

 初代の斎宮とされる大来(おおく)皇女は、天武天皇と大田皇女(天智天皇の娘)との間に生まれた皇女で、天武2年(673)に斎宮に卜定され、翌年伊勢に下向した。朱鳥元年(686)、同母弟・大津皇子が謀反のかどで粛清されたため退下したが、次の一首を含め、当時の悲劇を偲ばせる彼女の歌六首が、『万葉集』に収められている。

 「うつそみの 人なる我や 明日よりは 二上山を いろせとあが見む」(巻2ー165)

 養老5年(721)に卜定され神亀4年(727)に下向した井上内親王は、聖武天皇と県犬養広刀自(あがたいぬかいのひろとじ)との間に生まれた皇女で、天平16年(744)同母弟・安積親王の薨去により退下するまで、17年間斎宮をつとめた。のち、天智天皇の孫に当たる白壁王の妃となり、酒人女王と他戸王を儲ける。宝亀元年(770)、白壁王が即位すると(光仁天皇)皇后となり、他戸王が立太子する。ところが、その2年後に夫帝を厭魅した罪で皇后を廃され、やがて皇太子を廃された他戸王とともに大和国宇智郡に幽閉され、宝亀6年4月27日に母子揃って卒去したと伝える。

 母と弟が失脚した際、酒人内親王は突如斎宮に卜定され、宝亀5年に伊勢に下向したが、翌年、両者の卒去により退下する。その後、他戸に代わって皇太子となった異母兄に当たる山部親王、すなわちのちの桓武天皇の室に入り、同10年に朝原内親王を出産する。彼女の薨伝によれば、夫帝の寵愛甚だしく、わがままな性格でありながら好き勝手にさせられていたという。

 その娘である朝原内親王も、延暦元年(782)に斎宮に卜定され、3年後に伊勢に下向した。異例ながらこの下向を見送るため、桓武天皇が長岡京から平城京へ行幸した際に、有名な藤原種継暗殺事件が勃発する。その後十年半斎宮をつとめ、延暦15年に退下するが、母と同様に、異母兄にあたる皇太子・安殿親王、のちの平城天皇の妃となる。つまり、井上・酒人・朝原という三代にわたる内親王が、斎宮をつとめた後に、やがて即位する天皇の室に入ったことになるが、さまざまな異変に翻弄されて、数奇な運命を辿った。

 朝原内親王は、夫・平城天皇が退位の後、弘仁元年(810)弟・嵯峨天皇との間に争乱を引き起こすと、その2年後に妃を辞し、子を儲けることなく薨去する。これにより、聖武天皇の血統は絶えることになった。

文学部

本郷 真紹教授

専門分野:日本古代史