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三都ゆかりの地域の風土記

 
Vol.1

会報2022年 春号掲載
【新シリーズ】白山信仰の展開
近江と越前

 近江と山城の国境に位置する岩間山の中腹にある真言宗・正法寺(しょうほうじ)(岩間寺、現・大津市)は、養老6年(722)に越前の僧・泰澄が、元正天皇の念持仏であった千手観音をその胎内に納めた等身の観音像をこの地にまつったのが開基とされる。泰澄といえば、越前と加賀・美濃から登山道(禅定(ぜんじょう)道)が設けられた日本三名山の一つ、霊峰・白山を行場として開拓し、のちに全国に展開する白山信仰の礎を築いた僧として知られている。

 その伝記によれば、泰澄は天武11年(682)に越前の麻生津(あそうず)(現・福井市)に生まれ、越智山(現・越前町)で修行を積んだ後、養老元年に白山に入り、白山神の本地仏である十一面観音を感得した。同6年に平城京に赴いて元正天皇の看病に従事し、神融禅師という号を賜るが、正法寺はこの時に開かれたことになる。天平8年(736)には入唐学問僧・ 玄昉(げんぼう)を訪ねて再び都に赴き、十一面経を授けられた。翌年、朝廷が天然痘の災禍に見舞われると、十一面法を修して収束に尽力し、聖武天皇より泰澄の諱(いみな)を賜ったと伝える。

 越前と大和を往来したとされる泰澄であるが、確かに、両国を結ぶライン上に、泰澄ゆかりの寺院や白山神社が多く所在している。また、白山信仰の本尊とも言うべき十一面観音についても、大和から山城・近江を経て若狭へと続くライン上に、多くの優れた十一面観音像が残されており、代表的な事例である滋賀県長浜市の渡岸寺(どうがんじ)十一面観音立像も、泰澄の作にかかり、天平8年に上京した際に建立した光眼寺に安置したと言われている。

 白山周辺の地域に残る伝泰澄作の十一面観音像には、禅定を象徴するように坐像が多く、上述のライン上の立像とは異なる要素も存在するが、いずれにせよ、多様な表情を示す複数の顔をもつ十一面観音像は、その容貌が刻々と変化する白山のイメージと重なり合う部分が大きく、このことが白山と十一面観音を結び付けた要因と考えられる。泰澄の実在性と共に、史実と見なし難い部分も存在するものの、泰澄の伝記や各地の伝承には、何某かの実態を反映したと認められる要素が含まれ、興味深い内容を有している。

 白山のように神として崇められてきた霊峰は、仏道修行を志す僧にとって、仏・菩薩との出会いが期待できる格好の行場と受け止められ、その活動を通じて神と仏の習合を導く役割を果たした。平安時代になって、密教の隆盛と共に山岳信仰は高まりを見せ、各地に霊峰を遙拝する施設も設けられた。白山の例では、近江の湖南三山の一つ、鎌倉期の本堂(国宝)がある天台宗の長寿寺(現・湖南市)の境内に、鎮守の白山神社が祭られるが、その社殿は白山の方角を背に設けられている。 

 近江と美濃の国境に聳え、日本武尊(やまとたけるのみこと)が死に至る傷を負った山として知られる伊吹山も、泰澄が行場を開いたと伝え、平安期になって中腹に弥高寺(やたかじ)が建てられた。このように、畿内・近江と北陸との間で多くの交流があり、文化の伝播が生じたことが確認される。それは決して政治の中心である都周辺から地域へという一方向的なものでなく、白山信仰のように、北陸から畿内への展開といった逆方向の事例も存在したことに注目する必要があろう。

文学部

本郷 真紹教授

専門分野:日本古代史