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三都ゆかりの地域の風土記

 
Vol.3

盧舎那大仏造立と陸奥の産金

 天平7年(735)北九州で発生した天然痘は多くの被害をもたらし、同9年にはついに平城京がその疫禍に見舞われた。政権を担っていた藤原武智麻呂ら四兄弟は相次いで病死し、聖武天皇の朝廷は大きく動揺する。同12年、天皇は平城京から東国に行幸し、新たに山背国恭仁京、ついで摂津の難波京が都と定められ、同17年に平城京に戻るまで、朝廷が各地を転々と移動することになった。

 天平12年、東国に赴く前に難波京へ行幸した聖武天皇は、寺院が林立して宗教都市の様相を呈していた河内国大県郡(現・大阪府柏原市)の智識寺に立ち寄って丈六の盧舎那仏像を拝し、自らその造立を志すに至る。翌年には諸国に国分寺と国分尼寺を建立する詔が出されたが、さらにその2年後に、今度は盧舎那大仏造立の詔が発せられ、近江国の紫香楽で事業が開始された。やがて都が平城に戻ると、その事業は平城京の東方、現在も東大寺大仏が鎮座する場で継承されるところとなる。

 近隣には、かつて聖武天皇が遺児・基王のために建立した金鐘(こんじゅ)山房(金鐘寺)や、光明皇后が娘・阿倍内親王のために建てたとされる福寿寺といった寺院が所在した。盧舎那大仏の造立に伴い、これらの寺院を統合して、大養徳(やまと)国金光明寺、さらに東大寺と称された。天平21年(749)の頃には、青銅製の大仏の外形がほぼ出来上がったが、困ったことに、計画にあった大仏の表面に貼るべき金が不足する。未だ日本国内で金は産出されず、全て大陸や朝鮮半島からの渡来品で、到底必要量を満たすものではなかった。

 そのような折に、陸奥国より金が産出したという知らせが入り、現物が送られてきた。歓喜した天皇は、光明皇后・阿倍内親王や百官を率いて大仏にその旨を報告する。この時、大仏に北面した天皇は、自らを「三宝の奴」と称した。天皇の北面というのは全く異例の姿勢で、儀式の場で天皇は常に南面する存在であった。さらに、現人神とされた天皇が仏の下僕と自称したことは、その存在意義を大きく変える行為と言えた。金の産出を言祝ぎ、年号も天平から天平感宝と改められた。

 数年来身体の不調を訴えていた聖武天皇は、仏の力に頼ることでそれを克服しようとしたが、ついに、仏教者の世界に身を投じるべく、男性の天皇としては史上初めてとなる生前退位を敢行し、出家して「太上天皇沙弥勝満」と称し、薬師寺宮に入る。天皇の出家、それは、多くの仏教経典に登場する、転輪聖王という、厚い信仰心をもつ理想的な君主の姿を志向するものであったが、このような経緯で、女性初の皇太子であった阿倍内親王が即位し(孝謙天皇)、天平勝宝という新たな年号に改めた。

 この頃、九州・豊前の宇佐八幡神が、もろもろの神祇を率いて大仏造立を支援する旨の託宣を垂れ、平城京に勧請された。このように、先例のない天皇の行動は、これ以降急速に進展する神仏の混淆を導くきっかけとなったのである。崩御後大仏に献じられた正倉院宝物には、聖武太上天皇着用とされる袈裟が複数伝わっている。

 ところで、天平21年に金の産出を朝廷に報告したのは、百済王敬福(くだらのこにきしきょうふく)という、7世紀後半に滅亡した百済の王族の子孫であった。多数の百済遺民が日本列島に渡来し、朝廷でも重要な役割を果たしたが、彼らがもたらした技術や知識・情報は、日本の社会の発展に大いに寄与していた。敬福が陸奥国の国司に任命され、その地に赴いたのも、或いはその配下に、金属の鉱脈の開掘に優れた技術者を従えていた可能性があり、期待通りの役割を果たした敬福には、従三位という高い位階が与えられた。北河内にあった百済王氏の拠点(現・大阪府枚方市)には、敬福が建立した百済寺の跡が残り、特別史跡に指定されている。

 金が算出した陸奥国小田郡、現在の宮城県涌谷町の地には、黄金山(こがねやま)神社が鎮座し、当時の遺跡も検出され、砂金も採取されている。こののち、周囲で多くの金脈が開拓され、中尊寺金色堂に象徴される、奥州の豪壮華麗な文化を出現させることになった。

文学部

本郷 真紹教授

専門分野:日本古代史