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山城の風土記

Vol.6

会報2019年 夏号掲載
【第二シーズン】古寺にまつわる山城・京都の往昔
東寺

 延暦13年(794)、 桓武天皇は僅か10年で長岡京を放棄し、平安京への遷都を敢行する。その建設にあたって、朱雀大路の南端に位置する羅城門を挟む形で、西寺と共に設置されたのが、東寺である。

 そもそも、桓武天皇は、長岡・平安への遷都に際して、平城京の内外に所在した大安寺・薬師寺・元興寺・興福寺や、東大寺・西大寺といった官寺の移転を認めなかった。通説では、法王の地位に昇った道鏡の皇位継承問題が起こるまでに、僧侶の政治的発言権が増した状況を是正すべく、新都より仏教を遠ざけたなどと言われるが、東寺・西寺の創建に見られるように、決して仏教自体を忌避したわけではない。むしろ、桓武天皇は、自身が天智天皇の曾孫にあたることから、天武天皇系の皇統に代わり、新たに天智天皇系の皇統が成立したことを標榜するために、前皇統に縁(ゆかり)の深い官寺でなく、天皇の意向を反映した官寺の創建を望んだと受け止めるべきであろう。ただ、創建当時東寺・西寺に所属し常住する僧侶が存在しなかった事実には、注意を払う必要がある。

 その東寺は、弘仁14年(823)、桓武天皇の子・嵯峨天皇の時代に、空海に賜与された。文筆に長けた空海は、同じく漢文学に造詣が深く、また能筆でもあった嵯峨天皇の信任を受け、東寺を貰い受けて真言の道場とした。以後、真言宗の僧のみ五十人の常住が許可され、天台宗の延暦寺と同様に、東寺は真言宗の拠点として機能する。創建当時は金堂のみであった東寺の伽藍に、空海が講堂や五重塔の建立を企画し、伽藍の整備を進めていった。 現存する講堂は、室町期に消失した後再建されたものであるが、堂内は、立体曼荼羅(まんだら)と言われるように、五智如来像(密教の本尊・大日如来を中心とする五体の如来像)、五大菩薩像、不動明王等の五大尊像、梵天像・帝釈(たいしやく)天像、四天王像の、計21体の仏像が須弥壇(しゆみだん)に安置され、図に描かれる曼荼羅の世界を立体で表現している。うち15体の仏像は、空海が創建した当時のものと考えられている。

 東寺の機能は、まさに鎮護国家や玉体護持(天皇の身体の安寧)を祈る場という、王権と密接に結び付いたもので、国家法会の場としての性格を有し、いつしか教王護国寺と称されるようになるが、同時に、真言の道場とされたことで、真言宗の僧を育成する役割をもつようになった。さらに、平安末期に空海をまつる御影(みえい)堂(大師堂)が建立されると、東寺は弘法大師信仰の拠点寺院として広く信仰を集め、多数の荘園を保有する寺院権門として繁栄した。平安京の入り口という立地条件が時として禍(わざわい)し、戦渦に巻き込まれる事もあったが、同時に創建された西寺が次第に衰微してついには廃寺となった一方で、東寺は庶民の信仰をも集め、困難を克服してその維持が図られた。今日なお、京都を代表する寺院として多くの人々が参詣し、特に空海の命日である21日には、毎月境内で弘法市というオープン・マーケットが開かれ、賑わいを見せている。

 金堂や大師堂といった建造物、講堂内15体の仏像をはじめ、多くの国宝が東寺に所在するが、中でも江戸初期に建立された五重塔は国内最大の規模で、その容姿は京都の顔として多くの場面に登場している。

背景の地図[出典:国土地理院所蔵 山城 河内・摂津]

文学部

本郷 真紹教授

専門分野:日本古代史